2026-08-20
Vol.30
アートディレクター、デザイナー
上原テツヤ 氏(前編)
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真の理想はどこに
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正反対の感性が共鳴する
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独学と挫折
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6年ぶりの再始動
専門的なデザイン教育やビジネスの体系的な学びを経ず、自らの直感と独学だけを武器にストリートから駆け上がってきたふたりがいる。OSAJIブランドファウンダーの茂田正和と、その盟友でありデザイナーの上原テツヤさんだ。90年代の高崎のストリートカルチャーのなかでめぐり会い、衝突や挫折、さらに約6年間の不通期間を乗り越えて生み出されたふたりのクリエイティブは、いま、確かなかたちとなって世に広がりを見せている。
理想と現実、クリエイティブの情熱と経済と成長の間で葛藤し続けながらも、決して青臭い夢を捨てなかったふたりの歩み。 “独学の悪ガキ”たちが切り拓いてきた、デザインとブランドの真実に迫る。

カズが心底やりたいと思っていることは、狭い意味でのビジネスではない(上原)
——今回のゲストは茂田さんの30年来の旧友である上原テツヤさんですね。
茂田正和:小っ恥ずかしいですね、旧友って。
——上原さんは茂田さんの「理想論」の記事や活動について、昔を知る立場としてどんなふうに見ていましたか?
上原テツヤ:「理想論だな」と思いました。まさに言葉の通りというか。直接本人に言ったことはないけれど、昔からそういう男なんです。自分もそうでしたが、若い頃は理想を追い求めたいし、大きなことを言いたい。けれど、なかなかそれを現実化できなかった。だからいま、こうして言葉にして、少しでも理想をかたちにしようとしているんでしょう。
——はた目から見ると、茂田さんは化粧品会社を経営し、ブランドを成功させ、料理教室なども主宰されていて、やりたいことをすべて実現しているように見えます。
上原:カズが心底やりたいと思っていることは、まだ実現できていない気がします。おそらくそれは、狭い意味でのビジネスではない。若い頃からビジネスをやりたいと言っていたし、実際にそれをかたちにしてきたけれど、抱いている理想はたぶんそこ(単なるビジネスの成功)じゃない気がします。
——茂田さんが心の奥に隠し持っている理想を、今日はぜひ上原さんに引き出してもらいましょう。

上原:カズと自分は年齢が5つ違うんです。もともとカズとは知り合いの知り合いみたいな感じで。当時通っていたクラブの仲間たちから、「高校生で変なことをやっているやつがいる」と噂になっていたんです。
茂田:最初にテツさんと出会ったのは、高校を卒業した頃だったと思います。
上原:ちょうどカズがラジオをやっていた頃だよね?
茂田:ラジオのDJを始めたのは19歳なので、もう少し前のような気がします。
——茂田さんがラジオのDJをやっていたというのは初耳です。
茂田:「ラジオ高崎」というコミュニティFMが地元に開局して、すぐにDJとしてレギュラー番組を持たせてもらったんです。当初は僕らが通っていたクラブが1枠を持つという話で、みんな「ラジオをやるんだ」と喜んでいました。でも、やっているうちにだんだん飽きてきて、最終的に僕がひとりでやるはめになった。最初は1時間ずっとDJプレイを流す番組だったんですが、「ただ音楽を流していても面白くないな」と思い、自宅でトークを録音した番組に切り替えました。そこにテツさんもゲストとして来てくれましたね。
上原:Xのhideの「ピンク スパイダー」という楽曲が出た頃で、よく覚えている。カズは出会う前から自分のことは知っていたのかな? Tシャツをつくっていたこともあって、当時の高崎のストリート界隈ではわりと知られた存在だったと思うけれど。
——アパレルをデザインしていたんですね。
上原:もともと洋服屋でバイトをしていて、そこのオーナーから頼まれたのがきっかけなんです。絵が上手いのをみんな知っていたし、店でもちょこちょこタトゥーの図柄とかを描いていたんです。それで、そんな感じのアートワークを施したTシャツをつくったら爆売れして。
茂田:高校の同級生がみんなテツさんのデザインしたTシャツやウインドブレーカーを着ていたので、存在は認識していました。キムタク(木村拓哉)が着たりしてて。でも僕は昔から天の邪鬼で、みんなが着ていると逆に着たくなくなる。流行れば流行るほど、そういうものと距離をおきたくなる性格だったんです。別にテツさんのつくったものと距離をおきたかったわけではなく。

音楽の趣向は真逆だった。それでも「絡んでおいて損はないだろう」と自分に言い聞かせ、付き合っていた(茂田)
——ふたりの距離が縮まるきっかけは何だったのでしょうか。
茂田:当時、僕は自分が主催するイベントのフライヤーをすごく特殊な手法でつくっていました。ワープロで打った文字をプリントアウトし、水に濡らしてサランラップに包み、カラーコピー機にかけるという。それを街で配っていたら、テツさんから「なんかこれ、かっこいいじゃん」と声をかけられたんです。それからセレクトショップのファッションショーでテツさんが演出を担当し、僕がサックスを吹くような即興のインスタレーションをやるなどして徐々に距離が縮まっていった感じです。
——音楽やカルチャーの好みで意気投合したわけですね。
茂田:いや、実はまったく意気投合はしていなくて、むしろその逆です(笑)。僕は渡辺貞夫さんなどのジャズやアシッドジャズに傾倒してサックスを吹いていたんですが、テツさんは完全なロック・パンク畑。一度、前橋のライブハウスでやっていたハードコアのライブに連れていかれたことがあって。膝くらいの低い位置でベースを構えたお兄ちゃんが大音量で叫んでいて、何を歌っているかわからない。「こんな音楽の何が楽しいんだろう」と強烈なカルチャーショックを受けたのを覚えています。それくらい音楽の趣向は真逆だったんです。それでもカリスマ的な存在と言われる人が誘ってくれるなら「絡んでおいて損はないだろうと」と自分に言い聞かせ、付き合っていました(笑)。
上原:カズと会ったときに、まさか音楽の趣向がジャズ系だとはまったく思わなかった。スクラッチが得意で、アブストラクト系の音楽をかける若者としてインプットされていたからね。自分の音楽遍歴は、まずBOØWYやBUCK-TICKから入って、中学・高校でジャパニーズハードコアやパンクの洗礼を受けるんです。ただ、パンクカルチャーの「思想メイン」の雰囲気に少しついていけなくなって、洋服屋で働き始めたら今度はサイコビリーやグランジ、ニルヴァーナやレッチリといった音楽にどっぷりハマって。一方でイギリスのマッシヴ・アタックやトリッキーのようなトリップホップ、ダークなクラブカルチャーも好きだったんです。自分の好きなプライマル・スクリームの「スクリーマデリカ」やエイフェックス・ツイン、スティーヴ・ライヒをカズに聴かせたくて仕方がなくて。互いに「そんなの知りたくねえよ」と思いつつも、自分の好きな音楽をぶつけ合っていくうちに共通して引っかかる部分が見つかって、関係が深まっていった感じです。

同じ目標に向かってみんなでクリエイティブをする経験が初めてで、とにかくつくっている最中は楽しかった(上原)
——そうして1999年にふたりは高崎に共同でライブハウスとアパレルショップをオープンさせるわけですね。
茂田:オープンしたのはミレニアム跨ぎの99年12月31日です。後に自宅の設計をしてくれることになる建築家の方から、「ギャラリーとして借りているスペースを持て余しているから、カズとテツで使え。代金は出世払いでいいから」と言われて。それで「arizona forty-five degrees*」(以降、アリゾナ)というスペースを始めるんです。
上原:ふたりともまだ子どもだったから、「乗っかっちゃおうぜ」みたいなノリだったと思います。1階をアパレルショップに、2階をライブハウスという構造にして、ホームセンターでコンパネや石膏ボードを買い込んで、共通の知り合いを含めた4人で1年かけてフルリノベーションしました。同じ目標に向かってみんなでクリエイティブをする経験が初めてだったので、とにかくつくっている最中はすごく楽しかったですね。
茂田:あそこで生きる術を身に付けた気がします。テツさんは安いTシャツをどこかで買ってきてブリーチで色を抜いて、それに手描きで絵を描いて売ったりしていたし、僕のほうは当時アジアン料理がブームだったので、昼間にタイカレーをつくってそれを提供していたんです。県内のアジア料理屋からユニフォームを頼まれてつくったりもしました。
上原:そんなこともやってたね。


——お店やライブハウスの経営は順調に回っていったのでしょうか?
茂田:全然回っていませんでした(笑)。服は売れないし、人もほとんど来ない。主な収入源といえば、2カ月に1度行うドラッグクイーンのイベントが大入り満員になるくらいで。誰かに好かれるための音楽をやろうなんて気持ちを僕らは1mmも持っていなかったから、客が入らないのは当然です。結局、約1年で店をたたむことになりました。
上原:でも、アリゾナにMacが置いてあったことが、自分の人生にとって決定的な転機になったのは間違いありません。カズがMacを持っていてデジタルに詳しかったおかげで、それまでアナログで絵を描いていた人間がイラストレーターというデジタルツールを手にし、DTPや印刷技術を独学で猛勉強しはじめたんです。「DTPのすべて」みたいな本を穴があくぐらい読んだりね(笑)。もしカズがMacを持っていなかったら、デザイナーとして仕事をしている未来は100%なかったと思う。
茂田:これは嫌味で言うのではないけれど、僕はテツさんと出会ってなければうまく社会と迎合しながら、いいところまで行けたような気がしています。
上原:たしかに行けただろうね。

テツさんと仕事をしていると1回1回の問答が本当に面倒くさい。だけど、常に僕の想像を遥かに超えてくる(茂田)
茂田:僕は根が「アーティスト」ではなく、「エンターテイナー」なんです。高校時代に主催したクラブイベントを満員にできていたのも、そこに来る人たちが求めるものを敏感に察知して提供していたからです。でもテツさんと出会って超マニアックな思想や表現に触れたことで、世の中のニーズと自分の好みが分裂してしまった。アリゾナが1年で終わった直後に、「僕らはこのままじゃ食べていけない。社会のなかで生きていくために、ビジネスとしてお金を稼ぐ思考へ切り替えなきゃいけない」と強く決意したんです。
——アリゾナでの挫折を経て、その後ふたりはどのような道を歩んでいったのでしょう。
茂田:アリゾナをたたんでから、母親のために化粧品を自宅のキッチンでつくり始めましたことをきっかけに、「OS研究所」という化粧品の企画会社を立ち上げたんです。その後、父親が社長を務める家業の日東電化工業に入り、新規事業として「nesno(ネスノ)」という化粧品ブランドを立ち上げました。もちろん、パッケージデザインはテツさんにお願いしました。
上原:カズが始めた化粧品の仕事をデザイン面で手伝う感じで、すっかり「おんぶに抱っこ」状態でした。デザインの「デ」の字も知らないやつがやるわけだから思い通りにならないことはたくさんあったけれど、デザインすることで誰かの役に立つのが嫌いじゃなかったんです。自分は楽観的な一方で神経質で、「明日何かあって死ぬかもしれないし、いまやれることをやろう」と言い聞かせながら生きていました。
茂田:ただ、途中で僕らふたりと僕の父親との対立構図ができてしまったんです。そこでテツさんが、「カズ、申し訳ない。あんたの親父さんが言っていることは経営者の発言としては理解できるけれど、俺はそういうスタンスでは生きられないからもうやめるよ」と。2005年頃だったと思いますが、そこで僕らは本当の意味で別々の道を進むことになったんです。僕自身は血縁があるし、家業のメッキ事業も芳しくなかったので、「クリエイティブとはこういうものだ」なんて言っていられる余裕がなかった。そこから約6年間、完全に音信不通の期間が続きました。
上原:その間、自分はニートみたいな暮らしを送りつつ、帽子屋やアパレル店を細々とやっていました。でもいろんな問題が重なって、「もうアパレルはいいや」と投げ出した途端、カズから突然連絡が来たんです。「デザインをもう一度リスタートするから、力を貸してくれ」と。

——6年ぶりの再会と、プロジェクトの再始動ですね。
茂田:6年間めっき事業に没頭し、年商6億だった会社を12億まで成長させたタイミングで、父親から「誰がメッキ事業を手伝えと言った。お前が会社にいるのは、化粧品という新たな事業を軌道に乗せるためだ」と言われて、こっちは、「はぁ!?」という感じでした。「俺がいなかったらこの会社潰れているぞ」と思っていましたから。でもそこで腹をくくり、「群馬にいても成長がないので東京に出てやります」と宣言して、テツさんに「また一緒にやってくれ」と懇願したんです。
上原:疎遠だった間、カズは代理店出身のクリエイターチームと組んで「You by U(ユーバイユー)」という化粧品ブランドをつくったりしていました。その動きを傍から見ながら、「何でコイツ、俺に頼まないんだ」と本心では思っていました。ただ、カズが会社で背負っているプレッシャーや親父さんとの関係もわかっていたから、あえて何も言わずに放っておいたんです。
茂田:外部のクリエイターチームにYou by Uでいろんなデザイン案を出してもらいましたが、上がってくる提案がすべて自分の想像の範疇で、期待を超えるものがほとんどなかったんです。納得がいかないから細かく要望を出すと、今度はアウトプットが「僕がつくりたいもの」になってしまう。僕はクリエイターじゃないからそんなものの魅力なんてたかが知れていて、発売した瞬間に愛着が湧かなくなってしまった。ものすごいコストをかけたのに、こんなものしかつくれないことに愕然としました。
——そんな苦い教訓が、上原さんの存在を再認識することにつながるわけですね。
茂田:テツさんと仕事をしていると、僕が「こうしてくれ」と言っても「そうじゃねえよ」と返されて、1回1回の問答が本当に面倒くさい。だけど、最後に出てくるアウトプットが常に僕の想像を遥かに超えてくるんです。お金をたくさん払ったからといっていいデザインができるわけじゃない。そのことも含め、テツさんと一緒に何かをつくることのありがたさにそのとき初めて気づけたように思います。
上原:パーソナルな部分を知っていて互いに気兼ねがないから、本音を見抜けるんだよ。
後編 につづく(2026年7月27日公開予定)

*arizona forty-five degrees
1999年12月末から約1年間営業していたアパレル(1階)とライブハウス(2階)からなる複合ショップ。開業前に1年をかけて上原さんや茂田らがフルリノベーションを実施。鉄板の切断から電気配線までを自ら行い、空間をつくり上げた。 建物は高崎市本町156に現存するものの、当時の様子を窺い知ることはできない。
Profile
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上原テツヤ(うえはら・てつや)
1973年群馬県生まれ。90年代初頭、スケートカルチャーやタトゥーの図柄を描いた手描きのTシャツがストリート界隈で話題を呼び、アパレルデザインの道へ。98年に初の個展を開催。額装の制作を茂田正和に依頼したことから意気投合し、99年末に高崎市内に1階がアパレル、2階がライブハウスの複合ショップ「arizona forty-five degrees」を共同で立ち上げる。この頃から独学でデジタルツール(Mac)やDTP、印刷技術を習得し、ショップの運営と並行し、デザインワークを始める。その後、日東電化工業の社内デザイナーを経て2006年に独立。11年にマウンテンネームを設立し、現在同社代表を務める。17年の「OSAJI」立ち上げ時には、ブランド名の命名からロゴ、パッケージ、グラフィック制作全般を担当。近年の作品に、「kako -家香-」「HEGE」「しらかば荘」のロゴデザインやブランディング制作などがある。型にはまったデザイン理論にとらわれず、持ち前の直感と嗅覚で相手の本音や時代の空気感をすばやく察知。飾らない泥臭さと鋭い感性で、つくり手の想像を超えるかたちへと昇華させるアプローチを得意とする。事務所名の「マウンテンネーム」は、出生地である高崎市山名町の地名に由来する。
https://mountain-name.com
Instagram:@t28uehara -
茂田正和
音楽業界での技術職を経て、2001年より化粧品開発者の道へ。04年より曽祖父が創業したメッキ加工メーカー日東電化工業ヘルスケア事業として多数の化粧品ブランドを手がける。17年、スキンケアライフスタイルブランド「OSAJI」を創立しブランドディレクターに就任。21年、OSAJIの新店舗としてホームフレグランス調香専門店「kako-家香-」、22年にはOSAJI初となるレストラン「enso」をプロデュース。23年、日東電化工業の技術を活かしたテーブルウエアブランド「HEGE」を仕掛ける。同年10月、株式会社OSAJI 代表取締役CEOに就任。26年、茂田個人のプロジェクトである一棟貸しの宿泊施設「しらかば荘」を群馬県・猿ヶ京温泉に、OSAJIの複合型グローバルコンセプトストア「お匙 京都」を京都・御所南に開業。同年、日本固有の美意識をルーツとしたフレグランスブランド「soca」を発表。
著書に『食べる美容』(主婦と生活社)、『42歳になったらやめる美容、はじめる美容』(宝島社)があり、美容の原点である食にフォーカスした料理教室やフードイベントなども開催している。
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撮影:小松原英介
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文:上條昌宏
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撮影場所:本町しもたや
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