
2025-04-24
Vol.16
フライングサーカス代表、ジンフェスティバル東京主宰
三浦武明 氏(前編)
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ジンが導いた縁
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ロマンチック文化の栄枯盛衰
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ロマンチストでリアリスト
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心が動く瞬間は偶然のなかに
訪れたのは渋谷駅から徒歩10分ぐらいのところにある迷路のようなビルの一角。店内に入ると、そこで待ち受けていたのは1,000本以上のジンのボトルと今回のゲストである三浦武明さんだ。日本におけるクラフトジンの第一人者として知られる三浦さんは、飲食店オーナーや蒸留家などいくつもの顔を持つ。OSAJIブランドファウンダーの茂田正和とは、2020年末に誕生した「YOHAKHU」というクラフトジンづくりをきっかけに知り合い、いまでは互いを「親友」と呼び合う間柄だという。
共に、音楽、文化、香りへの関心が高く、ストリートが面白かった90年代カルチャーを体現するふたりが、ロマンチック、神道、イスラムなど多岐にわたるテーマについて意見を交わした。

時代の気分や、あの頃あの場所にいた人にしかわからない空気を共有できる貴重な存在(三浦)
——おふたりの出会いについて教えてください。
茂田正和:コロナのど真ん中だった2020年だと思います。長野県佐久市にある芙蓉酒造がクラフトジンをつくることになり、そこに僕らがアサインされました。武さんは「ジンフェスティバル東京」などを主宰する国内クラフトジンの第一人者なので、声がかかるのは当然だった。僕はそれまでジンというお酒はクラブで飲むぐらいしか経験がなかったんですが、香りの専門家として声をかけてもらい、一緒にプロジェクトに関わるようになりました。
——会ってみていかがでしたか?
茂田:武(タケ)さんは世界各国の料理を提供するTOKYO FAMILY RESTAURANTというお店を手がけていて、僕も化粧品づくりを中心にしながら食関係の仕事をやっていた。音楽という共通のキーワードもあり、意気投合するのに時間がかかりませんでした。ただし、香りに対する考え方というか、比喩の仕方が少し異なっていて。武さんは香りを音楽に喩えることが多いんです。そんな武さんに僕が企画していた香りを調香するワークショップのアドバイザーになってもらったのをきっかけに、距離感がぐんと縮まったように思います。それ以降、どちらかがイベントをやると呼び合ったり、周囲にいる人を紹介してつなぎ合ったりしています。

——ほぼ同世代でしょうか?
茂田:武さんのほうが歳は4つ上です。でも、この齢になると昔は大先輩だった人も「歳の差なんてどうでもいい」みたいなノリで友だち付き合いができる。その特権を生かし、40歳を過ぎてできた親友です。
——娘さんも同じぐらいの年頃ですか?
茂田:うちは16歳です。
三浦武明:うちの娘は12歳になりました。
茂田:会うと、ふたりでよくダメな親父論をしています。
三浦:自分はダメじゃないですよ(笑)。

茂田:でも武さんって、娘から「ひょっとして私のお父さん?」と聞かれた過去があるんですよね。
三浦:その話からしますか……。娘が3歳ぐらいになるまでと自分が店舗を増やしていた時期がちょうど重なっていたんです。毎日きちんと家に帰っていましたが、生活時間があまりにも違いすぎて、ある日突然娘から「武さんは私のパパなの?」と言われました。衝撃的だったけれど、同時に面白いなと。そんなこともあって、いまは友だちみたいな関係です。
——クラフトジンを一緒につくるようになって以降、三浦さんにとって茂田さんはどんな存在ですか?
三浦:特に音楽がキーワードになりますが、時代の気分や、あの頃あの場所にいた人にしかわからない空気を共有できる貴重な存在です。20年が最初の出会いですが、自分のなかではもっと長い付き合いのように感じています。茂田さんが「遊ぼうよ!」とか「ご飯に行こうよ!」と声をかけてくれるときはほとんど断らない。それぐらいすごく会いたくなる人だし、会うといろんな気づきをもらえます。

いま振り返っても90年代というのはいろんなものがロマンチックだった(茂田)
——先ほど茂田さんが「香りに対する考え方、比喩の仕方が違う」と言われましたが、三浦さんも同じ思いですか?
三浦:香りの考えが違うというより、落としどころの探り方が感覚的なのか論理的なのかの違いのような気がしています。茂田さんに招かれた「KAKO(家香)」というホームフレグランスを調香するワークショップで、自分は参加者が香りをどう設計していけばいいか、その方法についてサポートさせてもらいました。最初は感覚派と思われていたようですが、いざ香りを設計する段階で自分がかなり論理的に細かなチューニングを行う様子を見て、思った印象と違うと感じたのではないでしょうか。
いまは互いの違いを尊重し合っていて、茂田さんがロマンチックなモードに入ると自分がロジカルに落とす役目をし、茂田さんがロジカルなモードに振ろうとすると自分がロマンチックなほうを担う。実際ワークショップでもそういうやり取りだったと思います。ただ、自分は香りと音の関係性を研究していることもあり、言葉の使い方や設計方法にはある種の独自性があるのかもしれません。

——「ロマンチック」という言葉が出ましたが、茂田さんにとって三浦さんはロマンチックの師匠でもあると聞いています。
茂田:僕らは70年代生まれで、90年代のカルチャーを謳歌したギリギリ最後の世代です。懐古話をするのは嫌ですが、やっぱりいま振り返っても90年代というのはいろんなものがロマンチックでした。何かに憧れを抱く気持ちもすごく強かった。そんな時代に武さんは「カフェ」という言葉を日本に持ち込み、飲食店のあり方を再定義したんです。食べる場であり、お酒を飲む場でもあるけれど、同時に人と人が出会う場でもあるという。座っていたらいつしか隣の人と会話が始まる、そんなワクワクとドキドキが入り混じるのが飲食店の面白さだということを武さんが教えてくれたような気がしています。それがすごくロマンチックに思えたんです。
実際、武さんが経営するTOKYO FAMILY RESTAURANTは接客も含めてすべてが素晴らしい。ホスピタリティ的な応対とは少し違って、ドリンクを一杯頼んでオーダーが終わる頃にはスタッフとすっかり意気投合している。退店するときには、「新たな出会いができた」「また帰れる場所がひとつ増えた」みたいな思いを抱くことができます。そんな店をつくった武さんと話すと、「もっとこうしたら面白くなるんじゃないか」「こんな面白そうなことを最近考えているんだ」みたいな話も含め、いつもたくさんの刺激をもらっています。単に人を喜ばせるだけではなく、そこにサプライズが絡むところがとてもロマンチックなんです。それが武さんをロマンチックの師匠と呼ぶ理由です。

飲食店はロマンチスト的な部分をリアリストとして社会に接続していく都合のいい商売なのかもしれない(三浦)
——経済合理性が何かと重視される昨今、ロマンチックという感情が社会の隅に追いやられている印象があります。
茂田:ITバブルの崩壊以降、あらゆる物事を合理的に考えるようになりました。そこで、ロマンチックが恥ずかしいものとして扱われるようになってしまったんです。でも、それが経済状況のせいかと言ったら違います。90年代の東京のカルチャーに勢いがあったのは、バブル崩壊後の混沌とした状況が面白かったからです。「経済は最悪だけれど、楽しもうよ!」という雰囲気が街にも人にもあった。いまも経済については似た状況ですが、ロマンチックという感覚を取り戻せばそれほど悲観しなくていいと思えることがたくさんあるような気がしています。
先日商品会議の打ち合わせで「テーマは恋です」と言ったら、スタッフから「恋をしない人もいるんです」と言われて。すぐさま、「そんなのはダメです」と言い返しました。人に恋をしてもらうために僕らの仕事はあり、そもそも恋をしない人をターゲットにするのは僕らの仕事の本質からはかけ離れている。だから自分の仕事を通じて世の中が少しでもロマンチックな方向にいってくれたらいいなと思っています。武さんは「ロマンチックに溢れた世の中がいいよね!」と言い合える数少ない同志です。

——ロマンチックを楽しむ感覚が薄れているという茂田さんの指摘を三浦さんはどう受け止めますか?
三浦:ロマンチストと同義のような感じで、「魂を売ってないですよね」とか「相変わらず熱いよね」と言われることもありますが、正直よくわかりません。自分のなかには、ロマンチストかもしれないけど、同時にリアリストでもあるという感覚があります。そういう意味で、飲食店というのはロマンチスト的な部分をリアリストとして社会に接続していく都合のいい商売なのかもしれません。
茂田:そういう考え自体が、すごくロマンチストだと思います。
三浦:若いときから商売をさせてもらうなかで大事にしてきたのは、自分が美しいと感じたり、理不尽だからやりたくないとか、そういうことに対してわがままなぐらい思いを貫いてきたということです。大事な仲間や家族に勧められないことには1ミリも関わっていたくない。逆に心が動いたものは誰かに伝えたくなるので、表現がダサいかもしれないけれど、中学生ぐらいのときにロックに興味のなさそうな女の子にミックステープをつくって、「これいいでしょ!」と勝手にプレゼントしていた頃とあまり変わってないかもしれません。
でも情報が増え過ぎた現代社会では、「自分はこれが好き」の前に、「みんながどう思っているか」がまずは気になり、人の評価で自分を評するみたいな意識が強くなっている。そういう部分がロマンチックな感情の希薄化や何かを信じる力を人から奪っているのかもしれないですね。

心が動く瞬間というのは必然のなかにはなくて、偶然からしか生まれない(茂田)
——90年代に三浦さんがカフェを始めようと思ったきっかけを教えてください。
三浦:たまたまそういうことになったんです。18、19歳のときは、好きな音楽をやりながら、テキヤでスーパーボールを売ったり、池袋の華僑に雇われて飲食店のバイトをしたりしていました。世間では就職氷河期なんて言われた時代でしたが、どこか他人事でした。そんなときにたまたま通っていたカフェの店長から、「うちで働かない?」と声をかけられて。選曲もできると言われたので、その場で電話ボックスにかけ込み、バイト先に「今日で辞めます」と電話して、カフェで働きはじめました。その後音楽をやりたくて一時期飲食から離れますが、今度は音楽で出会った人たちが飲食事業部を立ち上げることになって、自分がお店の立ち上げを任されることになるんです。引き戻されたような感覚でもあったし、正直こんなに長く続けるとは思ってもみませんでした。
自分はわりといろんなことを考え抜いて決めてきたつもりですが、振り返ると意外に「事故」みたいなターニングポイントがいろいろあります。自分でジンをつくるようになったのも、ある調香師との出会いをきっかけに、「香りは音楽なんだ!」ということにものすごく心を動かされたのが理由です。一気に心を鷲掴みにされ、帰途もずっと心がザワザワしていました。そういうときは、「大変だけれどきっと自分はやるんだろうな。でも、自分の心がそう言っているのだから仕方ない」と思うようにしています。そういう感覚が行動を決断する最優先事項となっていて、それ以外のことはだいたいこじつけです(笑)。
——時代がどうだとか、マーケティング的にこうだという観点からはいっさい決断をしてこなかったわけですね。
三浦:TOKYO FAMILY RESTAURANTをいまの場所に出したのも、物件が面白く、「ここでやりたい!」と心が動いたからです。出店した2006年当時は、隣に大きなビルはなく、周囲は閑散としていました。みんなから「ここはさすがにないんじゃない」「難しいと思うよ」と言われましたが、心が動いたからしょうがない。心が動いたものに対して自分自身が信じられなくなったら、もうこの仕事はできないでしょう。
そうやって決断したことがかたちになり、たまたまうまくいくと「三浦さん、ずいぶん早いね」とか、「武さん、どこから情報を得ているの」と言われますが、何かを早くやろうと思ったことは一度もないし、意識的にそれを探すこともありません。心が動いたらやる、ただそれだけです。それがうまくいったときに「早かったね」となるんです。

——心が動いた決断のなかには、うまくいかなかったこともあったのでしょうか?
三浦:うまくいったかどうかよりも、仕事というかたちに落とせたか落とせなかったかの違いだと思います。仕事にできればそれをやる口実になるし、時間もかけられる。そうやって、ずっと子どもっぽく仕事をしてきました。でもそれがロマンチックと言われる所以かもしれないですね。
——「子どもっぽく」というのは、好奇心で夢中になっている様子を指すのだと思います。そのように仕事と向き合えるのは幸せなことではないでしょうか?
茂田:僕もそう思います。そこで気になるのは最近の子どもたちの情報の受け取り方です。すごく必然的というか……。僕らの世代にとってかっこいい音楽との出会いは、偶然会った先輩から教わったり、たまたま行ったお店で聞かされたりというのが大半だった。そうした偶発的な出会いによって自分の趣味趣向が形成されていったように思うのです。だけれどもいまの子どもたちは、人から教わることをせず、情報の大半をSNSから得ています。しかもそこで触れる情報のほとんどがインタレストマッチされたものなので、自分の興味の枠からはぜったいに超えられないんです。
僕もSNSを使いますが、使い方にはすごく気をつけています。そして、若い子から何かひとつ教えてもらったら、必ずそれをフォローするようにしています。そうでないとオッサンのコンテンツしか出てこなくなるので(笑)。でも、そうやってストックした情報に心が動くかと言われたら、実際はそうでもない。やっぱり真に心が動く瞬間というのは必然のなかにはなくて、偶然からしか生まれないんです。武さんとの出会いも偶然だし、ジンに関して無知だったにもかかわらずそれをつくるプロジェクトに参画したのも、偶然から得られる何かを求めていたからだと思います。でも、それがすごくロマンチックな気がするんです。もしかしたら、偶然心が動く瞬間というのがいちばんロマンチックなのかもしれないですね。
後編につづく(2025年5月1日公開予定)

Profile
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三浦武明
1974年東京都生まれ。株式会社フライングサーカス代表取締役、ジンフェスティバル東京
主宰。90年代より飲食店プロデュースに携わり、2000年初頭のカフェブームを牽引。その後、直営店のTOKYO FAMILY RESTAURANTなど都内を中心に30店舗以上の飲食店や商業施設の立ち上げ、イベントや催事等の企画・実施を行う。21年に”Gin is Music”をコンセプトに、香りと音の探求をするジンブランド「Distiller M(ディスティラーエム)」をスタート。24年7月に蒸溜所初のオリジナルジン「オリエンタリア」をリリース。京都の老舗生麩店「麩嘉(ふうか)」と組んで蒸留酒づくりなども行っている。 -
茂田正和
音楽業界での技術職を経て、2001年より化粧品開発者の道へ。04年より曽祖父が創業したメッキ加工メーカー日東電化工業ヘルスケア事業として多数の化粧品ブランドを手がける。17年、スキンケアライフスタイルブランド「OSAJI」を創立しブランドディレクターに就任。21年にはOSAJIの新店舗としてホームフレグランス調香専門店「kako-家香-」(東京・蔵前)、22年にはOSAJI、kako、レストラン「enso」による複合ショップ(神奈川・鎌倉)をプロデュース。23年、日東電化工業の技術を活かした器ブランド「HEGE」を仕掛ける。同年10月、株式会社OSAJI 代表取締役CEOに就任。著書に『食べる美容』(主婦と生活社)、『42歳になったらやめる美容、はじめる美容』(宝島社)があり、美容の原点である食にフォーカスした料理教室やフードイベントなども開催。24年11月にはF.I.B JOURNALとのコラボレーションアルバム「現象 hyphenated」をリリースするなど、活動の幅をひろげている。
Information
TOKYO FAMILY RESTAURANT
2006年渋谷区東にオープンした「食で世界を旅する」をコンセプトにした“東京のファミレス”。異国情緒たっぷりの空間で、世界30カ国以上の料理とクラフトジンやビールが楽しめる。営業は月〜金の週5日、いずれもランチタイムから18時まで。また、日本最大級のラインナップを誇るジン専門のボトルショップや、三浦さんが自ら設計したオリジナル蒸留器を置くジンの蒸溜所「Disttiler M(ディスティラーエム)」も併設する。
Instagam:@tokyofamilyrestaurant
ジンフェスティバル東京
2018年にスタートしたアジア最大級のジンの祭典。情熱を注ぐ造り手やインポーターが集い、ジンの魅力を発信するとともに、ジンを介した新たなつながりから、ジン文化のさらなる発展を見据える。コロナ禍の休止期間を経て5年振りの開催となった24年は、国内外から80社、過去最高100ブランドが会場に集結した。次回は26年の開催を予定している。
Instagam:@gin.festival_tokyo
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写真:小松原英介
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文:上條昌宏
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