2024-02-17
Vol.3
音楽家、詩人
山崎円城 氏(前編)
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今問われる死生観
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音は言葉であり、コミュニケーションの手段
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ことの本質に近づく量子的思考
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クリエイティブと社会性の両立
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社会に文化を広げる拡声器
詩、音楽、グラフィティ、タギング……。うねるような言葉で、わき起こる感情をつづっていく。言葉の濁流から浮き彫りになるのは、行き詰まった社会に対する痛烈なメッセージであり、立ち行かなくなった現状を打破するヒントのようでもある。「言葉の場所をつくるために、さまざまな表現活動をしている」。そう話す希代の創造者は、言葉の持つ力や現代に通じる普遍的な価値ついて何を思うのか。国内屈指のポエトリージャズバンド、F.I.B JOURNALを率いるかたわら、詩人やアーティストとしても活躍の場を広げている山崎円城(やまさき・まどき)さんをゲストに迎え、互いの関心やコラボレーションの行方など幅広いテーマについてじっくり語り合った。
美しく老い、豊かな人との出会いが生まれて、幸せに死んでいく——僕はそのために美容をやりたい(茂田)
——ふたりの出会いから伺えますか?
茂田正和:タレントのちはるさんが目黒でやっているチャム アパートメントというカフェがあって、そこで毎年開かれていたハロウィンパーティで(山崎)円城さんが演奏をされていた。僕はカフェの一角でお店を出したりしていて、そこでの出会いが最初です。
山崎円城:そうでしたね。
——茂田さんはそれ以前から山崎さんの音楽を聴かれていたんですか?
茂田:まったく知らなかったんです。ただ、演奏を聴いて「なんだこれは!」と、すごい衝撃を受けた。それが今からちょうど10年ぐらい前。以来、ずっと追っかけのようなことをしています(笑)。
——茂田さんはかつてレコーディングエンジニアをしていたこともあって、新しい楽曲に触れる機会も多かったと思うんですが、山崎さんの音楽のどんなところに衝撃を受けたんでしょう。
茂田:僕の音楽キャリアはサックスの演奏やジャズが出発点で、その後DJをしたりヒップホップに傾倒していくんです。円城さんの出す音には僕が通過してきた音楽キャリアのすべての要素が備わっていて、かつパンキッシュなところにすごく惹かれました。
僕は今、世の中に対して声を大にしてきちんと異を唱えることがすごく大事だと思っていて、この「理想論」というメディアを始めたのもそれがきっかけです。そこで重要なのは暴力性といった意味でのパンクではなく、行き詰まった社会に対する反骨精神という意味でのパンク。円城さんの音楽に親近感を抱くのは、そんなこととも関係しています。
——茂田さんは昨年、山崎さんが率いるバンド、F.I.B JOURNALの結成20周年ライブにも何度か足を運ばれたそうですね。
茂田: 8月に行われた能楽堂のライブも観させてもらいましたが、11月の下北沢の公演は円城さんの音楽を知り尽くしたメンバーとの人間関係がバンド編成にも如実に現れていたように思いました。円城さんの音楽を最高のものに昇華させようという気持ちが演奏の端々から伝わってきて、びっくりするぐらい感動しましたね。ライブの次の日にメッセンジャーで送った感想が、「めちゃくちゃ良かったです」みたいな稚拙な言葉になっちゃうぐらい(笑)。
ホーンセクションを入れた編成は、前に横浜のサムズ アップでも観ていましたが、今回のオーケストラ編成はあのときからさらに進化していて、全体の調和はもちろんPA目線で見たときのサウンドメイキングも素晴らしかった。
山崎:ありがとうございます。
茂田:今年はメッセンジャーを介して円城さんといろんなやり取りをさせてもらいました。「何か一緒にやりたいですね」という僕からのラブコールに対し、円城さんにはいろんな詩や言葉を送ってもらった。どれもが自分のなかですごく腹落ちするというか、自分がこれまで考えてきたことって「そういうことだったんだ!」と整理されるような内容が多かったんです。円城さんから出てくる言葉って僕にとってはとても心強いもので、それを多くの人とシェアしたいと思ったのが今回対談相手に指名させてもらった理由のひとつです。
——「ひとつ」ということは、他にも理由があると?
茂田:僕はコロナを経て、人の死生観について改めて考えるようになりました。コロナ禍で多くの国が感染対策として行動規制を強いるなか、北欧のスウェーデンは国民にマスクの着用を義務づけず、ロックダウンもしませんでした。彼らはウイルスに感染して命を落とすことになったとしても、それは寿命だからしかたがないと捉えたんでしょう。人工栄養なんかで延命されたくないというQOLを重視した人生観が浸透している国ですから。
また昨年、親父が脳出血で倒れたんです。実家に駆けつけたときには意識があったけれど、病院に運ばれると症状がどんどん悪化して、医師や看護師から「人工呼吸器を付けますか?」「心臓マッサージはどうしますか?」と矢継ぎ早に尋ねられた。そんな状況で「やらないでください」とはなかなか言えないですよね。でも、やることが親父にとって本当に幸せなのかはすごく考えました。結局親父は命をとりとめましたが寝たきりの状態が続いていて、それって親父にとって本当によかったのか? そんな感情が大きく揺れ動く体験があったことも死生観について深く考えるきっかけとなった。
僕は美容の仕事をしていますが、そこで感じる違和感というのがずっとあって、それは美容のゴールを不老不死と捉える向きが多いことです。美しく老い、豊かな人との出会いが生まれて、幸せに死んでいく——僕はそのために美容をやりたいんです。でも、こうした死生観や幸福とは何かということに対して自分のなかでも考えがまとまっていなくて、円城さんと話すことで少しでも整理できたらいいなと思ったんです。
——山崎さんは、言葉や詩を生み出すうえで、死生観や幸せ、愛といったことをテーマとして意識することはありますか?
山崎:もちろんあります。そもそも自分が詩を書き始めるきっかけが小学生のときの友だちの死でしたから。
地元は川崎のディープサウスと言われるエリアで、周りには厩舎や工場がたくさんあるようなところでした。川はどこも工場からの排水でぬかるんでいて、足を突っ込むと抜けなくなるんです。それを遊びのような感覚でふざけ半分にやっていたら、あるとき自分たちのやっていたことを見ていた友だちが真似をして命を落とすという事故が起こってしまった。直接自分が引き起こしたことではないにせよ、自分たちがつくったもの(遊び)が人の運命を変えてしまったことにものすごくショックを受けたんです。自分のなかにさまざまな気持ちが渦巻いて、それをどうしたら成仏させられるか。悩んだ末に行き着いたのが、詩を書くことだったんです。言葉が出ないときは、何かを鳴らすような行為を無我夢中でやっていました。その姿を見た親父が家の外に転がっていた足踏みオルガンを見つけてきて部屋に運び入れるんです。音楽を始めるようになったのは、それがきっかけです。
——足踏みオルガンを与えようと思った理由を、お父さんに尋ねたことはありますか?
山崎:おそらく何かをつくろうとする雰囲気を感じたからじゃないですか。そして親父はつくったものに対して、「これはいいね」と褒めることをずっとしてきてくれました。
自分の音楽は、何かの楽曲に衝撃を受けたとかではなく、つくりたいという衝動が先にあって始まった。そういう意味ではヒップホップの起源と同じなんです。メロディやリズムをつくるみたいなことをやるんだけれど、思っていることを音に出せないから言葉で出すみたいな。
ものごとを俯瞰し、何かのフィルターに収めることが音楽だと気づいたときに、音楽の呪縛から解放された(山崎)
山崎:自分は若くして死ぬと思っていました。理由はわからないけれど、もしかしたらさっき話した友だちを亡くした事故と関係しているのかもしれない。だから、一時どうしたら長生きできるかをずっと考えていて、思い至ったのが寝るのをやめればいいということだった。寝なければそのぶん人より生きたことになるんじゃないかと。そう思ったら家に帰って寝るのがバカバカしくなって、放浪みたいなことを高校のときに始めるんです。
そんな自分に大学へ行くことを勧めてくれたのが美術の先生だった。その先生は、自分がテスト用紙を破いたりコラージュして学校で「不届き者!」と吊るし上げになったときに、「これはすごい個性だから」と守ってくれた。その先生が、「半分美術大学のようなところだから、ここだったら受け入れてもらえるチャンスがあるかもしれないよ」と教えてくれたのが和光大学だったんです。
大学ではデビューのきっかけをつくってくれたリトルクリーチャーズのメンバーたちと出会うんですが、音楽の基礎をしっかり学び、10代からプロとして活躍していた彼らと自分とでは実力の面で比較にならないぐらい差があって、どうしようかかなり思い悩みましたね。そうしていろいろ考えた末にたどり着いたのがリズムなんです。リズムという解釈ならもしかするといろんな人たちとセッションができるんじゃないか、と。
音楽ってルールに沿っていくやり方もあるけれど、ひとつフィルターを変えることでセッションが可能になるという適応力も持ち合わせている。例えば今この場にギターを弾いている人がいて、BGMが流れ、その横で人が喋っていたとして、その光景を上から俯瞰して見たときに、おそらくアンビエント(環境音楽)としては十分成立するんです。そうやってものごとを俯瞰し、何かのフィルターに収めること自体が音楽だと気づいたときに、メロディやコードに当て込まなくてはいけないという音楽の呪縛から解放されたんです。
——音楽の入り口がかなり特殊だと思う半面、山崎さんの音楽に対する嗜好がどうやって形成されていったのかが理解できたような気がします。
茂田:最近ユーチューブで、ジャズミュージシャンの渡辺貞夫さんと久保田利伸さんのふたりが音楽のルーツを探る旅をするという30年以上前の動画を見つけたんです。モダンジャズを出発点に、ブルースが生まれたアメリカ南部へ行き、ブラジルに渡り、最後にアフリカにたどり着くという。アフリカまでさかのぼると、太鼓やら何かを叩いてリズムを奏でる様子が、音楽というよりも言葉を介したコミュニケーショのように見えて、これは円城さんがやっているポエトリーリーディングと通じるものがあるなと思ったんです。
結局、音は言葉であるという考え方が音楽のルーツにあって、メロディやコードという概念もルーツをたどると音楽というよりもコミュニケーション手法に近いんじゃないかなと、その映像を見て思いました。僕はどうすればうまくメロディを奏でることができるか、そのことばかりに頭が向いていて、結局それを考えるのに疲れて音楽やめてしまうんですが、もしその頃に円城さんと同じぐらい俯瞰してものごとを捉えることができたら、自分の姿が今とはちょっと違っていたのかもしれない。
人間のルーツに近づけば近づくほど、ものごとの構造やメカニズムは量子力学的なものになっていく(茂田)
茂田:この前信濃町で一緒に食事をしたときに、円城さんについて気づいたことがあったんです。それは、円城さんの音楽のベースが量子力学みたいなところにあるということ。勝手な持論ですが、音楽って追求していくと最終的には哲学と物理学に分かれると考えていて、円城さんの音楽は当初、哲学のほうだと思っていました。たまにカバーされるトム・ウェイツやボブ・ディランの音楽も僕にとっては哲学に近い。哲学思想はヨーロッパに起源があって、奴隷制度の制定なんかにも影響を及ぼしていると思うんです。じゃあ、アフリカのルーツはどうなのかというと、彼らは奴隷制度を強要されてきた側なので哲学じゃないことは明らかです。そうなると物理学であり、量子力学的にものごとを捉える量子的思考になるんじゃないかというのが僕の見立てです。誰かと意思疎通をするために音を奏で、それがものすごいスピードで伝達されていくのってすごく量子的じゃないですか。
家業のメッキ工場にいる日系ブラジル人の従業員と話をしたときに、彼らが「神様に祈りを捧げる行為には思いのベロシティ(速さ)がある」みたいな言い方をしていて、それもひじょうに量子的な話だと感じるんです。きっと人間のルーツに近づけば近づくほど、ものごとの構造やメカニズムは量子力学的なものになっていくんじゃないか。そう思ったのが、円城さんの音楽を量子力学的と言った理由です。
山崎:自分の音楽を量子力学的と言われたことはこれまでほとんどなかったですが、量子という考えはすごく気になっていました。歌や言葉の役割って、言葉にならない言葉を命名することであり、そうやって思いを成仏させるのが歌い手や詩人の役目だと思う。おそらくこうした考えは哲学よりも量子のほうに近くて、別の言い方をすると、細分化されたものごとの先にある小さな現象や目に見えない力に命を吹き込むことだったりするのかもしれない。そんなすごくプリミティブなところに自分の使命があるような気がしています。
自分の言葉って、誰かに何かを啓蒙するというより、生活の知恵みたいなものに近い感じがするんです。だから、“発明”に近い行為というのが適切なのかもしれない。そんなことばかり考えているから、結局どんどん袋小路に入ってしまうんでしょう(笑)。
——それでもやり続けるモチベーションとは?
山崎:それしかできないからでしょうね。あと、アーティスト活動のほうは少し違うけれど、結局お金にならないのに手に汗握るぐらい命がギラギラする瞬間って音楽でしか得られないんです。
茂田:円城さんを見ていると、本当にそんな感じですね。
山崎:生きている実感を得るため、という部分もあるのかもしれない。
——それは先ほど話された、「自分は若くして死ぬ」という思いとも関係していますか?
山崎:そうかもしれない。誰もがいずれは死というものに直面するんだけれど、若いときに自分の命が永遠だと思ったときがあって、そこから人生をかなり遠回りしてしまったように思うんです。10代で友だちを亡くし、それをきっかけに音楽を始めたのに、どこかで死への感度が鈍ってしまった。昔あれだけ長く寝れたのは自分が死とは縁遠い存在だと思っていたからでしょう。逆に今は歳をとったせいもあって夜中に何度も目が覚めてしまう。それを自分は死に対する反抗的行為と捉えていて、「寝たくないんだ、俺は!」って、身体が死に対して抗っているんだと思うようにしています。
こんなことばかり考えているから、今という瞬間を大切に生きようという気持ちになるし、毎日見ている雑草がものすごい勢いで伸びていたりするとその変化にすごく感動したりもする。時間って過ぎ去るものだけれど、同時に積み重なっていくものでもあって、無くなるものじゃないんです。人の命も同じで、亡くなったら、どこか次の旅に行ってるんだろうと思うぐらいでいいんじゃないのかな。終わることは始まることだし、始まることは終わることなんだから。人間はきっと死んでいる時間のほうが長くて、「生きている今がすべてだと思ってんじゃねえよ」って自分に言い聞かせています。
後編につづく
Profile
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山崎円城
1970年、神奈川県川崎市生まれ。10代より独学で音楽活動を始める。96年、リトル・クリーチャーズの栗原 務らと組んだユニット、Noise On Trashでデビュー。2003年、ファッション誌「Commons & sense」とのコラボレーションをきっかけにF.I.B JOURNALとしての活動を開始し、現在に至るまで「ジャズパンク」と称される作品を多数発表する。音楽活動のかたわら、詩人としても活動。これまでに2冊の詩集を発表し、現在3冊目を制作中。また、「好きな言葉の共有」を目的に不定期に開催される朗読会「BOOKWORM」の主宰も務める。グラフティやダギングなどの手法を用いた作品発表も精力的に行い、近年はファッションブランドとのコラボレーションも多数。自身のアトリエで制作したタギング作品の個展を22年、23年と2年続けてgalerie-a(東京・南青山)にて開催し、今年も新作の個展開催を予定している。
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茂田正和
音楽業界での技術職を経て、2001年より化粧品開発者の道へ。
04年より曽祖父が創業したメッキ加工メーカー日東電化工業ヘル スケア事業として多数の化粧品ブランドを手がける。17年、 スキンケアライフスタイルブランド「OSAJI」 を創立しブランドディレクターに就任。 21年にOSAJIの新店舗としてホームフレグランス調香専門店 「kako-家香-」(東京・蔵前)、22年にはOSAJI、 kako、レストラン「enso」による複合ショップ(鎌倉・ 小町通り)をプロデュース。23年は、 日東電化工業の技術を活かした器ブランド「HEGE」を仕掛ける。著書に、『食べる美容』( 主婦と生活社)、『42歳になったらやめる美容、はじめる美容』 (宝島社)がある。
Information
F.I.B JOURNAL
2023年に結成20年を迎えた国内屈指のポエトリージャズバンド。2005年からEGO-WRAPPIN’のサポートベーシストとして活動する真船勝博、ドラマーの沼 直也が加入し、トリオ編成に。現在までにトリオ編成で5枚、オーケストラ編成で1枚、音楽ユニットTICAの武田カオリをボーカルに迎えて1枚の計7枚のアルバムを発表している。近作は過去の楽曲のフレーズの一部をサンプリング・コラージュして再構築した「This is GHOST」(23年秋に配信プラットフォームでリリース)。タギングによるアートワークを山崎自身が手がけた。
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写真:小松原英介
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文:上條昌宏
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撮影協力:月見ル君想フ
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