2025-10-02
Vol.21
障害福祉サービス事業所 PICFA施設長
原田啓之 氏(後編)
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使えるか使えないかで人を判断するな
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植物を育てることで知る
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ケニアからも遊びにくる
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日本の福祉の歴史に新たな一ページを刻む
佐賀県の基山町にあるきやま鹿毛病院内に、海外からも見学者が訪れる全国でも珍しい施設がある。障害福祉サービス事業所の「PICFA(ピクファ)」だ。そこでは、知的障害や精神障害のある人たちが、筆や色鉛筆、タブレット端末などを手に、絵画を中心とした創作活動に取り組んでいる。そんなメンバーたちを優しい眼差しで見守るPICFA施設長の原田啓之さんが今回のゲストだ。
施設名に込めた福祉とアートの融合を通して、障害者の自立と理解を促そうとするその取り組みは、近年しきりに強調される「多様性の尊重」という価値観への疑問や違和感を超えて、真の意味を問いかける。2017年の出会い以来深い交流を続けるOSAJIブランドファウンダーの茂田正和が現地を訪ね、原田さんのPICFAに寄せる思いなどについて聞いた。
前編はこちら

どれだけ仕事に対してモチベーション高く臨めるか。奉仕してくれた人にきちんと「ありがとう」と言えるか。すべての仕事の基本はそこにある(茂田)
茂田正和:近年、「多様性」という言葉ほど一人歩きしている表現はないと思っています。
原田啓之:多様性という言葉は本当に急に出てきた印象があります。そういうことを言わないと認め合えない人たちが増えているのでしょう。でも僕らは所詮人です。そこにどういうタイプの人がいようと、本来はいいはずなんです。むしろいろんな人がいて当然なのに、その状況を認識するためにあえて多様性という言葉を持ち出さないといけなくなってしまったというのは、少し寂しい気がします。
大半の会社では社員を評価する際、使えるか使えないかで判断します。「あいつ使えねえ」と簡単に言う人がいますが、それって「お前死んじゃえ」と同じぐらい厳しい言葉で、言われたほうは相当こたえます。使えるか使えないかをPICFAのメンバーに置き換えて考えると、手が動かないとか歩行がままならないなど、ここはまさに世間では“使えない”と見なされる人の集団と判断されてしまう危険性があります。それでもOSAJIとコラボレーションしたり、ローソンと協業できたりしています。国交相の人たちがわざわざ研修に来たりもします。会社という組織も同じでしょうが、集団というのはチームで力を発揮してこそ意味があるんです。にもかかわらず、使えるか使えないかですぐに人を判断してしまうのはすごくもったいないでしょう。もう少し待てば才能が開花するかもしれないし、仕事以外のことで得意なことがあるかもしれない。「あいつがいるとチームの雰囲気が柔らかくなる」ということも、チームにとってはプラスの材料です。今日の終礼でみなさんにいろいろ質問したメンバーがいたと思いますが、彼がいるだけで場の雰囲気が和みます。それが彼の役割でもあるので、それ以外のことは気にしなくていいし、みんなを盛り上げることでチームとしての役割を担ってくれている。彼はもう3年ぐらい同じ絵を描いていて、新作はぜんぜん出てきません(笑)。
PICFAは絵を描くことを仕事にする施設なので、何かしら作品をつくっていないといけないと捉えられがちです。でも、彼が場を和ませてくれるからこそ他のメンバーがのびのびと絵を描けると考えると、チームの一員として十分彼の魅力は伝わっていると思います。ひとつの仕事を完遂できない人は使えない、という発想はここには持ち込めないんです。それがPICFAの良さでもあります。

原田:「福祉、福祉って言うけれど、福祉とは何ですか?」とよく聞かれます。そのとき僕が答えるのは、「福祉とは幸せの権利です」ということ。福祉という言葉は高齢者と障害者にしか当てはまらないと思われがちですが、そうじゃない。僕は自分の活動の目標を、「障害者を持つ親、特に母親が死ぬときに笑って死ねる社会の仕組みをつくりたい」と言い続けてきました。でも、僕自身も幸せになりたいんです。
福祉を誰もが幸せになれる権利と捉えたら、その資格は健常者にもあります。そういう発想に行き着くと、そもそも他人を批判しようという考えは起きないでしょう。
——介護支援者やケアマネジャーなど、“支える”仕事に従事している人たちも福祉の一員です。そういう人たちが幸せを実感できるために必要なこととは何でしょう。
原田:それは組織の代表や会社の社長のような立場の人が考えないといけない問題だと思います。サポートしてくれる人たちが疲弊して潰れてしまったら、介護や福祉事務所の活動はそこで終わりです。それを回避するためにも、ケアする人たちのケアが重要なんです。
福祉の世界には優しい人が多いんです。みんなが誰かのためにと思って仕事をしている。ただ、その思いが強すぎると他のことが見えなくなってしまい、自らが疲労困憊していることにも気づけなくなります。重い障害を持つ子の家族は誰かに褒められるわけでもなく、子どもの面倒を見続けています。その状態が長く続くと悲劇が起きる。だからこそ、ケアする人をケアできる——「あなたも幸せになっていいんだよ」と言ってあげられる人が周囲にいることが大事になるんです。


茂田:福祉に限らず、どれだけ自分の仕事に対してモチベーション高く臨めるかが肝心じゃないでしょうか。そして、奉仕してくれた人にきちんと「ありがとう」と言えるかどうか。すべての仕事の基本はそこにあると思います。だから、「もっとお互い上手に言葉をかけ合おう」と言いたい。究極的なデリカシーとはそういうことのような気がします。
いまは自分のために母親が何かをしてくれても、素直に「ありがとう」と言えなかったりします。店で提供された料理を当たり前のように食べ、何も言わずに支払いを済ませて帰っていく人も多い。僕が自分の息子を誇らしく思えるのは、食事をして美味しかったら、「ご馳走様でした。美味しかったです」と言って店を出るところです。教えたわけでもないのに、自然とそういう感謝の言葉を口にできる。料理をつくる人にとってそういう一言が励みになるし、原動力になるんです。
化粧品販売の仕事も一緒です。店長に、「今まで仕事を続けてきていちばんうれしかった瞬間は?」と聞くと、誰もが迷わず「お客さまにありがとうと言われたとき」と言います。仕事上、自分が使えることを周りに誇示したり、誰かに尽くす瞬間があったりするかもしれないですが、最後に「ありがとう」という言葉をかけられたらすべてが報われるんです。それが人間なんです。
原田:メンバーのなかにはほとんど言葉を発さない人もいます。そういう人の思いをくみ取るのは僕らでさえ難しい。ただ、彼らも何らかの信号を発していて、注視していると拾えるようになります。それができるかどうかは感性の部分が大きいでしょう。感性を身につけることは意外に難しいけれども、困っている人のシグナルに気づける感性は案外会得しやすいものです。人のために何かをしてあげようという思いさえあれば。

リストカットをする人には、「やるなら思いっきりやればいい。でも、何度も傷つけてタトゥーみたいになるぐらいなら、初めからタトゥーを入れたら?」と言う(原田)
茂田:対談の前に、通所者がリストカットをするのをやめさせるために施設内で植物を育て始めたという話を聞きました。植物を育てるようになってから、どんな変化がありましたか?
原田:リストカットをする人に僕は、「やるなら思いっきりやればいい。でも、何度も傷つけてタトゥーみたいになるぐらいなら、初めからリストカットのタトゥーを入れて線を増やしたら?」と言いました。当然、周りからは「なんでそんなことを言うんですか」と叱られました。「カラフルな線を入れたら可愛いじゃん」と言うと、スタッフからも怒られました。
僕としては「娘がまた自分の身体を切り刻んでいる」と、声を震わせて泣くような思いを両親にさせたくなかったんです。攻撃の矛先を自分に向けるのは、「愛おしい」と思う感情が欠けているからだと自分なりにたどり着きました。自分自身を愛でることができれば、ぜったいに身体を傷つけたりはしないでしょう。他者を含めて何かを愛でるという感覚を得るためにどうすればいいかと考え、植物を育てることを思いつきました。

——植物はどうやって調達を?
原田:まず、「PICFAジャングル化計画」というプランを打ち出しました。愛情を注いで育てるのなら、そこらに生えた雑草ではなく、美容室に飾られているような立派な植物がほしい。そのことをPICFAに立ち寄ってくれるおじいちゃんやおばあちゃんたちに話すと、わざわざ自分の家の庭から掘り起こした植物を持ってきてくれたんです。なかには「枯れたら枯れたでいいよ」と言ってくれる人もいました。
福祉施設内でこんなにたくさんの、そしていろんな種類の植物を育てているところは見たことがありません。重度の障害者を受け入れている施設からは、植物がちぎられたり引っ張られたりしてたいへん、という声をよく耳にします。僕は植物にその役割も担ってもらえればいいと思っています。食べてしまう子がいたとしても死ぬことはないので、口に入れてまずいことを知ってもらえばいい。一度食べてまずいと思えば、続けないはずです。食べることに関心がある子がいたら、食べられる植物を置いてみるのもひとつの手段でしょう。でも、先ほども話した通り、どうしても「こうあるべき」という固定観念が勝ってしまうんです。その人自身が何を嫌がって植物を引きちぎろうとするのか? 形なのか、色なのか、匂いなのか……。そういうことも知ろうともせず、ただやみくもに「やめてしまえ」と言うのは支援する側として無責任です。
——しっかり原因を突き止め、そのうえで対処法を考えるべきだと?
原田:僕は何でも試さないと気が収まらないたちなんです。音が苦手な人がいたらどんな音が嫌いかを徹底的に探る。人の苦手意識を見つけることができるワークショップを立ち上げ、そういう場に連れていったりもします。すると、自閉症の人であれば3歳児の女の子の高い泣き声が苦手ということがわかってきて、そういう泣き声が聞こえたらサッとその場から引き離すようスタッフが目を配ります。僕らは福祉のプロとして動いているので、家族でも気づかないようなことに気づけるのかもしれません。

PICFAは社会がより良い方向へ向かうトリガー。そう思うから、信頼する仲間を連れてきて、その価値を一緒に共有したい(茂田)
原田:苦手意識を逆手に取った面白いエピソードがあります。OSAJIの人たちとハンドクリームをつくったときです。匂いをどう調合するかという話のなかで、匂いが苦手な自閉症の人に調合してもらおうというアイデアが出たんです。本人が嫌がることをさせるので、見方によってはいじめのようにとられてしまう懸念がありました。でも、僕は本人が嫌だと言わなければ面白い発想だと感じたんです。自閉症のメンバーに、「匂い、嫌いやろ?」と聞いたら、すぐさま「苦手です」と答えました。その後、「100種類近い匂いの原料が届くから、そこから好きな匂いを見つけてほしいみたいだけれど」と話すと、彼は「いいですよ」とやる気を見せてくれた。後日、匂いの成分を抽出したものがセットで送られてきて、彼はそれを嗅ぎ分けながら好みの匂いを探し出しました。その匂いをOSAJIの調香師の方が整え、ハンドクリームの香りができ上がったんです。こういう発想は僕らには考えつかないことですし、そういうことができるのがすごく楽しいんです。
「してはダメ」ではなく、「やっていいんだ」という意識がどんどん広がってほしい。障害者と一緒にバーに飲みに行ったり、コンパに出かけたりすることが普通にできるようになるのが理想です。腹の底ではみんな、固定観念によって縛られていることをぶっ壊したいと思っているはずなんです。

茂田:ぜったいにそう思っているでしょう。と同時に、誰かにその口火を切ってほしいと考えている。僕はPICFAがその口火を切る存在だと信じています。PICFAは社会がより良い方向へ向かうトリガーなんです。そう思うから信頼する仲間を連れてきて、その価値を一緒に共有したいんです。
——近所の小学生がふらっと遊びに来られる施設になりたいと発言されていましたが、実現していますか?
原田:けっこう立ち寄ってくれます。夏休みが終わる頃になると、宿題を終わらせてきなさいとお母さんに言われた子どもたちが涙を浮かべながら、画用紙と水彩絵の具を持ってやってきます。メンバーが描き方を教えるので、思いきり自由な絵を描くんです。なかには毎回学校で賞を取る子もいて、みんな描写力を高めて帰っていきます。
不登校の子たちが相談に来ることもあります。「PICFAに行くといいよ」という話が全国に知れ渡っているようです。2週間前にはケニアからも見学者が来ました。どうして認知が広がっているのかわかりませんが、いろんな人が遊びにくる場所になりつつあります。
——見学者のなかには、PICFAを手本に同様の施設をつくろうと考えている人も多いのでは?
原田:「どうしたらPICFAのような施設をつくれますか?」とよく尋ねられます。福祉活動に限らず、何をするにも覚悟をもって取り組めばたいていのことはできるんです。大事なのは、その一歩を踏み出せるかどうか。PICFAの真似はできないでしょうが、その施設にしかできないことがぜったいにあるはずです。そういうところから始めて、施設や地域の独自色を出していけばいいんです。大事なのは目の前にいる人のことを最優先に考えることです。そういう心づもりでいれば判断を誤ることはないでしょう。

やっぱり、福祉のことだけを考えて発想していると不安になるんです。そういうときに、年齢も業種も異なる人からエールをもらえるのはすごく心強い(原田)
——将来のPICFAの姿について考えていることがあれば教えてください。
原田:僕には福祉の道に進もうと決めた大学生時代に立てた100年プランがあります。母親が障害のある息子のことを気にせず笑って死ねる仕組みをつくるための計画です。計画を実行しはじめて23年目を迎えましたが、大学時代に立てた30年目に目標としているのはPICFAでアパレルのブランドを立ち上げることです。服を中心に展開しながら、僕らの姿勢を伝えていくようなブランドになるのが理想です。独自のECサイトを立ち上げ、世界に向けてアピールすることも忘れません。
すでに.comのドメインも取得済みです。もともと米国の会社が保有していたものを僕らが買い取り、商標登録をしました。ヨーロッパやアフリカ、アジアでも商標登録の申請を行っています。「やろうとしていることは間違ってない」と資金面も含めて応援してくれる人がけっこういるので助かっています。やっぱり、福祉のことだけを考えて発想していると時々不安になるんです。そういうときに、年齢も業種も異なる人からエールをもらえるのはすごく心強いですね。
30年目以降も含め、100年プランの全容についてはまだ誰にも話していません。PICFA を立ち上げて5年目ぐらいまでは、将来の計画についていろんなところで話をしていました。そうしたらアイデアを他の企業に盗まれてしまったんです。企業が福祉事業に参入できるようになり、「原田のアイデアは金になる」と目をつけられたんでしょう。アパレル以外で話せる将来の構想としては、この病院の上層階にギャラリーをつくる計画があります。ギャラリーという拠点ができれば、世界により発信しやすくなるでしょうし、世界からも僕らにアクセスしやすくなる。これまで以上に世界の情報が届きやすくなると考えています。

——世界のアート情報に触れるタッチポイントになると?
原田:アートというよりも、世界中の福祉の情報が集まる拠点のイメージが近いでしょう。福祉に関する情報交換を世界規模で行っているところはおそらくまだ例がないはずです。ただ、最初から福祉の情報交換を狙って拠点を立ち上げようとするとまじめな人ばかりが集まる恐れがあります。だから僕らはアートを媒介にしていろんな業界の人から福祉の情報を集めたいと考えているんです。それが実現できたら、日本の福祉の歴史に新たな一ページを刻むことになるでしょう。
——デンマークなどの北欧諸国が福祉先進国としてよくニュースに取り上げられますが、そういう国と比較したときに日本の取り組みは遅れているのでしょうか?
原田:遅れているかどうかの議論の前に、まず前提として文化の違いがあると思っています。そこで、できることとできないことが大きく違ってきます。先日、デンマークに住む人と話をしたんですが、向こうは福祉を「個」として捉える考えが浸透していると言うんです。ダウン症のゲイのカップルがバーでお酒を飲む様子を紹介するTV番組があるのがその象徴だと。日本では考えられないですよね。生々しい現実を生々しく見せる。そして、「あなたはそれに対してどんなサポートができますか?」と問いかける。そういうことが普通にできる社会が羨ましく思えました。日本だと頑張っている姿を映して、「みんなで応援し、感動しよう」というのが常です。感動にばかり目が向き、個の存在が見えなくなっているとしたらそれはすごくもったいないでしょう。

茂田:僕は以前、会社のベクトルは寸分違わず同じ方向を向いていることが大事だと思っていました。でもいまは、北海道に行こうとしている会社に対し、東北方面を目指そうとする社員がいてもいいと考えています。そのくらいの柔和さがないと、働く人たちは窮屈さを感じてしまうだろうし、自分で考えて発想することを放棄してしまうんじゃないかと思うからです。働く人それぞれが自分のベクトルを持っていて、それらが合わさった結果、到着した先が宮城だったり山形だったりしてもそれでいい。それが企業です。僕はそういう発想をPICFAから学ばせてもらったと思っています。
PICFAからは日々いろんなアートが生まれていますが、ここでは絵の描き方を教えることはいっさいしていないですよね。1日中寝ていたいメンバーがいれば、それもよしとしている。そうしたなかで、互いの特性に影響し合いながらクリエイティブなことが始まり、寝ているだけじゃもったいないと動き出す人もいますね。
原田:そうした共鳴が僕らの意図しないところでいろいろ起こるのが不思議です。
茂田:僕はそういうことが起こること自体がナチュラルな組織のかたちであり、ナチュラルな人の感情のかたちのような気がするんです。PICFAができてから、最低でも年に3回は毎年ここを訪れていますが、施設全体がどんどんナチュラルな方向に向かい、誰が来ても居心地がいいと思える場所になってきています。だから、ひとりでも多くの人にPICFAの存在を知ってもらいたい。この対談が少しでもそのきっかけになったらうれしいです。

Profile
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原田啓之(はらだ・ひろゆき)
1974年福岡県生まれ。兄が知的障害だったこともあり、幼少期から障害のある子やその保護者の背中を身近に見て育つ。そうした経験を踏まえ、「福祉の概念を変えたい」との思いから日本福祉大学への進学を決意し、福祉の勉強を本格的に始める。2000年に同大学を卒業後、音楽とアートを仕事に位置づける障害福祉サービス事業所「JOY倶楽部」の立ち上げに参画、副施設長を務める。02年にアート部門の「アトリエブラヴォ」を発足し、イベント立案や渉外などを担当する。17年に創作活動を通じた福祉と社会のさらなる連携を目指し、きやま鹿毛医院内に「PICFA」を立ち上げ、施設長として現在に至る。21年より京都市障害者雇用促進アドバイザー派遣支援事業アドバイザー。中学、高校時代にはソフトテニスの全国大会で優勝したという逸話の持ち主でもある。
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茂田正和
音楽業界での技術職を経て、2001年より化粧品開発者の道へ。04年より曽祖父が創業したメッキ加工メーカー日東電化工業ヘルスケア事業として多数の化粧品ブランドを手がける。17年、スキンケアライフスタイルブランド「OSAJI」を創立しブランドディレクターに就任。21年にはOSAJIの新店舗としてホームフレグランス調香専門店「kako-家香-」(東京・蔵前)、22年にはOSAJI、kako、レストラン「enso」による複合ショップ(神奈川・鎌倉)をプロデュース。23年、日東電化工業の技術を活かした器ブランド「HEGE」を仕掛ける。同年10月、株式会社OSAJI 代表取締役CEOに就任。著書に『食べる美容』(主婦と生活社)、『42歳になったらやめる美容、はじめる美容』(宝島社)があり、美容の原点である食にフォーカスした料理教室やフードイベントなども開催。24年11月にはF.I.B JOURNALとのコラボレーションアルバム「現象 hyphenated」をリリースするなど、活動の幅をひろげている。
Information
PICFA
佐賀県基山町で350年続く医療法人清明会 きやま鹿毛医院内にオープンした日本初の障害者就労支援B型事業所。知的障害や自閉症、ダウン症のある20名がメンバーとして所属し、アートやデザインといった創作活動を通して自立した生活ができるよう支援活動を行う。施設名のPICFAは、PICTURE(絵画)とWELFARE(福祉)からとった造語で、創作活動と福祉の両方を追求したいという思いが込められる。メンバーの作品やコラボレーションアイテムはHPからも購入可能。
https://picfa-shop.jp
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写真:小松原英介
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文:上條昌宏
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