
2025-09-25
Vol.21
障害福祉サービス事業所 PICFA施設長
原田啓之 氏(前編)
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センセーショナルな出会い
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アートの理由
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障害は“個性”ではなく、“特性”
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障害のある子を持った両親が安心して死ねる社会をつくる
佐賀県の基山町にあるきやま鹿毛病院内に、海外からも見学者が訪れる全国でも珍しい施設がある。障害福祉サービス事業所の「PICFA(ピクファ)」だ。そこでは、知的障害や精神障害のある人たちが、筆や色鉛筆、タブレット端末などを手に、絵画を中心とした創作活動に取り組んでいる。そんなメンバーたちを優しい眼差しで見守るPICFA施設長の原田啓之さんが今回のゲストだ。
施設名に込めた福祉とアートの融合を通して、障害者の自立と理解を促そうとするその取り組みは、近年しきりに強調される「多様性の尊重」という価値観への疑問や違和感を超えて、真の意味を問いかける。2017年の出会い以来深い交流を続けるOSAJIブランドファウンダーの茂田正和が現地を訪ね、原田さんのPICFAに寄せる思いなどについて聞いた。

障害があるというだけで評価されることが幸せなのか? 障害者が描いたというだけで商品化され、マネタイズされていく社会は本当に豊かなのか?(茂田)
——茂田さんが原田さんと出会ったのは、「PICFA(ピクファ)」が立ち上がってすぐの頃だそうですね。
茂田正和:PICFAとOSAJIは2017年生まれの同じ年なんです。
——出会いのきっかけは何だったのでしょう。
茂田:大手小売グループでPB化粧品をつくる話が持ち上がり、たまたまその企画を担当することになったんです。企業ビジョンなどを勘案し、僕は障害者アートを活用したパッケージデザインを提案しました。先方からいい感触が得られ、実現できそうなところを探す過程でPICFAのことを知りました。
結局そのときは別の施設で話がまとまり、PICFAとの協業は実現しませんでした。ただ、PICFAにすごく興味が湧いていたので、お詫びを兼ねて「そちらに伺ってもいいですか?」と原田さんに連絡したんです。訪問したのはPICFAができて数カ月経った頃です。
原田啓之:設備の充実度も今とはぜんぜん違っていて、まだテーブルが3台ぐらいしかなかったときですよね。「お詫びをしたいので、佐賀まで行きます」と言われたとき、僕は最初「東京からそのことだけを伝えるために、わざわざ来なくてもいいですよ」と返答しました。コンペではよくある話じゃないですか。にもかかわらず「行きます」の一点張りで。
最初にコンタクトをもらったときも、「日東電化工業の茂田と申します」と言われて、なんかヤバいやつが来ると思ったんです。工業系の人が何でうちなんかに連絡してくるのかと。スーツに身を包んだ硬いイメージの人が来ると思っていたら、ぜんぜん違っていました。気さくな感じで口調も柔らかい。しかも手がけているのは化粧品だという。さらに驚いたのは、「仕事を他社に取られなくてよかったです。僕たちはPICFAと直に仕事をしたいと思っています」と言ってもらえたことです。


茂田:いま振り返っても、すごくセンセーショナルな出会いだったように思います。施設を見た後にクルマで博多のまちを回り、PICFAを立ち上げる前の「アトリエブラヴォ(*1)」時代に原田さんが障害者と手がけた壁画などを見せてもらいました。車中でいろんな話をするなかで、僕が抱いていた福祉や障害者アートに対する違和感がすべてスッキリしたんです。
——茂田さんが抱いていた違和感とは?
茂田:原田さんと会って衝撃的だったことがふたつあります。ひとつは、アトリエブラヴォ時代に制作した壁画に、夜な夜な若者たちが落書きをしに来たときの話です。現場に居合わせた原田さんを見て若者たちは「やべぇ」と思って逃げようとするんだけれど、原田さんは彼らを捕まえて、「一緒にバトルをしよう」と持ちかける。壁画にいたずらをされないよう見張っていたおばちゃんにも声をかけて、アートや街を軸にいろんな世代の人たちがみんなで共存する道を探るんです。
もうひとつは、百貨店のショーウインドウを依頼されたときの話です。原田さんは依頼主に「百貨店の一等地で作品を並べられるのは障害があるからですか?」と問いかけたといいます。売れずにくすぶっているアーティストがごまんといるなかで、障害があるという理由だけで一等地での展示が許されるのは気持ち悪いという思いが原田さんにはあって、「できれば障害の有無に関係なく、素晴らしい作品同士を混在させてほしい」とお願いするんです。
——障害者も健常者も分け隔てなく、共生しようということですね。
茂田:東京でPICFAの作品展が開かれたときに、会場にメンバーの弟さんが来ていて、「兄ちゃんはうらやましい。俺も障害がほしい」と言いました。彼はグラフィックデザイナーで、障害があることでチャンスを得られるお兄さんのことがうらやましかったのでしょう。そういう気持ちがわからないではない。
障害がある人を抱える家族にはさまざまな思いがあり、良い悪いを軽々しく口にすることはできません。でも、障害があるというだけで評価されることが当人にとって本当に幸せなのか? 障害者が描いたりつくったりしたというだけで商品化され、マネタイズされていく社会は本当に豊かなのか? そういう違和感が僕のなかにずっとあったんだと思います。

人の心を動かすのに障害の有無は関係ないと思えた瞬間、「この仕事は続けなくてはいけない」と決意した(原田)
——OSAJIでは長野県の障害者支援施設である「ねば塾(*2)」と共同開発した「ローソープ(半熟石けん)」を17年から発売していますね。
茂田:彼らと一緒に取り組みはじめてもう10年以上になります。「障害者施設を支援している」といった論調でメディアに取り上げられることが多いですが、そんな気持ちは1ミリもありません。つくりたい石けんのイメージが最初にあり、いろんな工場に声をかけたものの効率が悪いという理由ですべて断られたんです。「さて、どこだったらつくってくれるだろう」と思案していたら、ねば塾の方から「手作業がしたいので、その仕事をやらせてほしい」との申し出があったんです。僕らは手仕事で石けんをつくれるところを探していて、彼らはそういう作業を発注してくれる会社を見つけていた。OSAJIとねば塾の間には互いにウィンウィンの関係が成立していて、そこに障害の有無は関係ないんです。
障害者支援を目的とした仕事は経済的に余裕がある間は続けられます。でも、会社が困窮したときに同じ依頼ができるという保証はありません。一方的な支援の気持ちだけでは協業は続かないんです。互いの特性をトレードし合う関係性を築かないと、多数の個性がひしめき合う現代社会ではやっていけないように感じます。
僕は大学を中退し、会社に勤めてもすぐに辞めてしまいました。そういう意味では「社会不適合者」です。でも、そんな人間だからこそアイデアや考えを誰かとトレードし合えているようにも思います。そんな話を福岡に移動する車内で原田さんとずっとしていた記憶があります。


原田:2002年に「アートを仕事にする」「アートしか仕事にしない」という障害者支援施設を立ち上げる際、まだ時代的に障害者アートというカテゴリーはぼやっとしたもので、アートだけを仕事として行っている施設はありませんでした。アートをやると決めたのは、障害の程度に関係なく誰もが自由に取り組めるからです。PICFAに通うメンバーには、指の第一関節がすべてない人や半身に麻痺がある人もいて、技術的に必要なことが多くなると、どうしても対応できないことが増えます。一定の区別は大事ですが、能力やIQでやれることとやれないことが区別されるのは違うんじゃないかという思いがあったんです。好きなことがあればそれに思いっきり取り組み、できたものを社会に出していく。のびのびできるものは訓練しなくてもいい。それでアートに着目しました。
ただし、それまで福祉しかやってこなかったので、アートについては門外漢でした。どうしたらアートを仕事にできるのか。制作したものにどうやって付加価値を付けていくのかその方法もわからなかった。どんな画材を使用すればいいか、どういう展示をしたらいいかを知るために、画家のアトリエやギャラリーを訪ね歩き、教えを乞いました。画材は100円ショップでも入手できたでしょう。でも、彼らが仕事としてアートを行うために、画家が用いるようなエビデンスがしっかりしたものを使ってほしかったんです。100年残る画材、100年残る紙……。仕事の道具として、きちんとしたものを揃えたかったんです。
——アートに対して無知だったからこそ大胆な行動がとれたんですね。
原田:カテゴリーによって展示を分類しないといけないなど、どのような見せ方や発信をすればいいのか判断すらつかなかったんです。一度、健常者のアーティストと障害者の描いた絵を一緒に展示したときに、「お前たちは健常者に近づきたいのか!」とものすごい剣幕で非難を受けたんです。最初は何を言われているのかさっぱりわかりませんでした。そういう声を耳にするたびに、「これ以上続けるべきじゃないのかな」と何度も思いました。そんなときです。フラッと現れたおばちゃんが知的障害のメンバーたちに向かって「あなたたちいい線描くね」と言ったんです。「普通こんな線はなかなか描けないよ。そのことわかってる? 感動したから昼ご飯をプレゼントすると言って、食べきれそうもない量のピザを買ってきてくれたんです。障害者を不憫に思う気持ちが少しだけあったかもしれません。でも、それ以上に彼らが描いた線に純粋に感動してくれたんだと思います。人の心を動かすのに障害の有無は関係ないと思えたその瞬間、「この仕事は続けなくてはいけない」と決意したんです。

日本で障害者の特性を理解し、個性もわかったうえで彼らを支えてくれる人はまだそんなに多くない(原田)
原田:茂田さんと出会ってから、PICFAでOSAJIや百貨店などのデザインの仕事を受けるようになりました。茂田さんは変態なので——これは僕の最高の褒め言葉ですが、きちんとダメ出しをしてくれるんです。企業と仕事をすると、「この部分はちょっと変更したいんですが、頑張って描いてくれたものですから今回はこれで進めましょう」といい意味で妥協する人がいます。健常者の画家やイラストレーターに依頼していたら、納得できるまで何度も描き直しをしてもらうのが普通ですが、障害者だと言いにくいのでしょう。僕らはそれをある種の優しさと受け取りますが、茂田さんの場合は、自分のイメージと違うと思えば遠慮なくズバーンと言う。それをメンバーに伝えると、彼らはうれしがったし、「もっと描ける」と喜ぶ子もいました。
直球の反応を彼らは意外ともらえないんです。どうしても言葉を選び、オブラートに包んだ言い方になってしまいます。そういう優しさがあってもいいですが、僕としてはもっとひとりの人間として見てほしいという思いがあります。商品として出す以上、つくって終わりではないんです。売れないといけないし、売れないと次に続いていかないし、新たな仕事をもらうこともできない。売れるものとして出すのであれば妥協は禁物です。クライアントと私たちが最後まで納得しデザインできたのはOSAJIとの仕事が初めてだったかもしれないですね。
茂田:原田さんたちがメンバーの人たちに投げる言葉も、ズバッと直球が多いですよね。怒るときはきちんと怒るし。

原田:障害の種別や程度に関係なく、マナーが悪い人に対しては何が悪いかをきちんと伝えるようにしています。障害が重いという理由で伝えることを諦めてしまうケースがけっこうあるんです。「この人のいる世界は特殊だから無理をさせる必要はない」と。でも実際、障害のある人たちが生活しているのは僕らと同じ“普通”の世界です。福祉に対する社会的理解が進んでいるとは言い難い日本で障害者の特性を理解し、個性もわかったうえで彼らを支えてくれる人はまだそんなに多くないでしょう。
——原田さんは障害を“個性”ではなく、“特性”と捉えていて、個性は特性の延長にあると考えていることがこれまでの言葉づかいからもわかります。でも、大半の人は障害を個性と認識し、そこに当事者らと世間との思いのズレがあるように感じます。
原田:障害を個性と言うのは本当に間違っています。あくまで特性なんです。自閉症、ダウン症、精神障害もその一種で、障害者だろうと健常者だろうと特性は誰もが持ち合わせているものです。
障害という特性の延長にそれぞれの個性を見出すことができれば、メンバーと一緒に飲みに行くことにも抵抗がないはずです。「あいつは飲める口だ」「あの子は歌うのが好きだよね」と普通の人と同じように接することができる。僕らはアートを生業にしていますが、アートのすごさを見せつけたいわけでは決してないんです。アートはあくまでも媒体であって、いろんな人やブランドとつながる手段です。それは、メンバーの友だちを増やすためのものでもあります。支援者や理解者ではなく、「なんとなくウマが合うようね」とか、「一緒に飲みたいね」と思ってくれるような人たちを増やす。それをいちばん喜ぶのは障害のある子を抱えた親御さん、特に母親です。

PICFAが醸す空気感や温度感は、原田さんがメンバーとどう向き合い、スタッフとどんなコミュニケーションを取ってきたかの産物。それは企業内におけるコミュニケーションの手本でもある(茂田)
——2000年代に入ってから、日本の公立美術館でも福祉をテーマにした展覧会が盛況です。また昨今、障害者アートをビジネスで支えようという企業も増えています。こういう状況を原田さんはどう見ていますか?
原田:僕が福祉を学んでいる大学生だった25年前に、こんな時代が来るとは想像もしていませんでした。企業の参入が相次ぎ、障害者の芸術文化振興に国も積極支援するようになったことは、福祉の一大変革です。最新の統計によれば日本には現在人口の9.3%、1,164万人の障害者がいると言われています。その人たちが多くの選択肢を持てるという意味では好ましいことでしょう。
一方、企業参入が増え、黙っていても仕事の依頼が来たり、作品が売れていったりするなかで、逆に福祉の現場の担い手が減っているようにも感じます。福祉の現場でなぜアート活動が実践されているのか? 障害がある人たちと関わって価値を交換する意味とは? ビジネスの盛況に目を奪われ、そういうことを考えなくなってしまっていたらちょっと怖いですね。
茂田:この話は多くの人が知らないことだと思うので、友人としてあえて言わせてください。出会ってからの2、3年間、原田さんはアートをやるのか福祉をやるのかでけっこう揺らいでいたんです。悩んでいたというよりも、迷走していた。そのまま進んでいたらきっとどっちつかずの状態になっていたでしょう。でも、あるときを境に福祉をやるときっぱり決めるんです。いま振り返るとそこがPICFAにとっての大きな転換点だったように思います。
アール・ブリュットやアウトサイダーアートと言われる障害者アートがフォーカスされるようになったいまもPICFAが地に足をつけて活動できているのは、軸をぶらさないからです。いい作品をつくるかではなく、障害という特性を持った人たちの両親が安心して死ねる社会をいかにつくるか。そのテーマを一貫して追求していることがいちばん大きいでしょう。

——思い悩んだ末に福祉に振り切れた要因はなんだったのでしょう。
原田:もともとアートと福祉が両立しないとダメだと思っていました。アートが突出すると風変わりに見られるし、福祉が突出すると超ダサくなるみたいなところがありますよね。そうならないために両立を心がけました。ただ、そのための殻をどこで破るか。やっぱり“福祉はこうあるべきだ”といった見えない空気感があるんです。
茂田さんと出会ってから、上京の折にユニークな発想を持つ異業種の方にたくさん引き合わせてもらいました。そういう人たちに僕らの現状を話すと、「振り切ればいいじゃん」「なんでそんなことが福祉でできないわけ?」とみんな普通に言うんです。僕は茂田さんと違い、大学で福祉を学ぶなど人生を真っ当に生きてきた人間です(笑)。だから頭の片隅に「福祉はこうあるべき」という考えがあって、「これ以上やると福祉じゃない」と自分のなかに制限を課していたんでしょう。でも、思い悩むぐらいなら、いっそのこと固定観念を外してみようと福祉的な制限を取っ払ってみたら、結果は意外と普通でした。障害者と健常者が一緒に酒を酌み交わしても何ら文句も出ない。むしろ参加した人たちはみんな楽しそうにしている。「じゃあ、今度はみんなでスナックをやってみよう」となり、いまは年に1、2回、施設内にスナックをオープンしています。悩むぐらいなら、いっそのこと誰かにすごく怒られるまでやってみればいい。そう思えたことが福祉に振り切れたターニングポイントだったように思います。いま振り返ると、当時は普通のことを普通に実践できていなかったことがもったいなかったなという感じです。

茂田:いまの話は企業の人事や組織論にも当てはまると思いながら聞いていました。○○ハラスメントみたいな言葉が横行するなかで、個人の特性に触れることが企業内でどんどんNGになっています。健常者同士でも互いの特性を受け入れ合えていないんです。そういう風潮が圧力となり、「飲みに行こう」という言葉を口にすることさえためらわせている。「言っていいのか、いけないのか」という空気のなかで、デリカシーに自信のない人はすべて「言わない」で片づけてしまい、どんどん悪循環に陥っていきます。
PICFAが醸す空気感や温度感は、原田さんがメンバーとどう向き合い、スタッフとどんなコミュニケーションを取ってきたかの産物です。それは企業内におけるコミュニケーションの手本でもあるんです。だから僕は会社のスタッフがいろんなかたちでPICFAと関わりを持ってほしいし、友だちになりたいと思える経営者は必ずここに連れてくるようにしています。人と人が取るべきコミュニケーションの理想の姿はこうだよね、というのがPICFAから見えてくると思っているからです。
後編につづく

*1_アトリエブラヴォ
障害がある人たちのアートを通じた社会参画を目指し、原田さんが2002年に立ち上げたアーティスト集団。障害福祉サービス事業所のJOY倶楽部が主宰し、福岡市博多区を拠点に現在10名ほどのメンバーで活動している。9月末に福岡で開催された「ART FAIR ASIA FUKUOKA 2025」に福祉事業所として唯一出展を果たすなど、その作品は海外からも高い評価を得る。主な作品に福岡市街のウォールアートがあり、壁をキャンパスにした創作活動はニューヨークでも実施された。
*2_ねば塾
障害者の経済的自立を目指して1978年に長野県佐久市に設立された福祉事業所。安定的な収入を得て経済的に自立するために、1983年より廃油利用の無添加石けんの製造を開始。現在は自社ブランドの開発・製造だけでなく、OEM生産なども手がける。2017年の発売以来ロングヒットを続けるOSAJIの「ローソープ(半熟石けん)」は、両社が連携し、約2年の歳月をかけて開発したことでも知られる。
Profile
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原田啓之(はらだ・ひろゆき)
1974年福岡県生まれ。兄が知的障害だったこともあり、幼少期から障害のある子やその保護者の背中を身近に見て育つ。そうした経験を踏まえ、「福祉の概念を変えたい」との思いから日本福祉大学への進学を決意し、福祉の勉強を本格的に始める。2000年に同大学を卒業後、音楽とアートを仕事に位置づける障害福祉サービス事業所「JOY倶楽部」の立ち上げに参画、副施設長を務める。02年にアート部門の「アトリエブラヴォ」を発足し、イベント立案や渉外などを担当する。17年に創作活動を通じた福祉と社会のさらなる連携を目指し、きやま鹿毛医院内に「PICFA」を立ち上げ、施設長として現在に至る。21年より京都市障害者雇用促進アドバイザー派遣支援事業アドバイザー。中学、高校時代にはソフトテニスの全国大会で優勝したという逸話の持ち主でもある。
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茂田正和
音楽業界での技術職を経て、2001年より化粧品開発者の道へ。04年より曽祖父が創業したメッキ加工メーカー日東電化工業ヘルスケア事業として多数の化粧品ブランドを手がける。17年、スキンケアライフスタイルブランド「OSAJI」を創立しブランドディレクターに就任。21年にはOSAJIの新店舗としてホームフレグランス調香専門店「kako-家香-」(東京・蔵前)、22年にはOSAJI、kako、レストラン「enso」による複合ショップ(神奈川・鎌倉)をプロデュース。23年、日東電化工業の技術を活かした器ブランド「HEGE」を仕掛ける。同年10月、株式会社OSAJI 代表取締役CEOに就任。著書に『食べる美容』(主婦と生活社)、『42歳になったらやめる美容、はじめる美容』(宝島社)があり、美容の原点である食にフォーカスした料理教室やフードイベントなども開催。24年11月にはF.I.B JOURNALとのコラボレーションアルバム「現象 hyphenated」をリリースするなど、活動の幅をひろげている。
Information
PICFA
佐賀県基山町で350年続く医療法人清明会 きやま鹿毛医院内にオープンした日本初の障害者就労支援B型事業所。知的障害や自閉症、ダウン症のある20名がメンバーとして所属し、アートやデザインといった創作活動を通して自立した生活ができるよう支援活動を行う。施設名のPICFAは、PICTURE(絵画)とWELFARE(福祉)からとった造語で、創作活動と福祉の両方を追求したいという思いが込められる。メンバーの作品やコラボレーションアイテムはHPからも購入可能。
https://picfa-shop.jp
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写真:小松原英介
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文:上條昌宏
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