Vol.14

医師、医学博士、作家、慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科（SDM）特任教授
稲葉俊郎 氏（後編）

「型破り」という言葉は、この人を形容するためにあるのかもしれない。カテーテル治療という最新医療を専門とする一方で、医療の枠を広げ、芸術や伝統芸能などとの接続を通して心身の回復につなげる多彩な試みを行ってきた。医師の知恵と青年時代にのめり込んだアートへの深い造詣は、芸術祭の芸術監督という異例の抜擢を実現させた。
昨年、3度に渡った芸術監督としての役目を終えると、相前後して医者を辞した。そしていまはより社会に寄り添うかたちで医療と芸術の新たな可能性を模索しているという。そんな稲葉俊郎さんを家族で暮らす軽井沢に訪ね、伝統医療から東洋哲学、神道、さらに美容や恋との向き合い方など多彩なテーマについて語ってもらった。

前編はこちら

美容とはコンプレックスをかき消すツールではない（茂田）

茂田正和：長く美容の世界に携わるなかで、コンプレックスとどう対峙するか、共存するかということが大きな関心事としてあります。僕は美容とはコンプレックスをかき消すツールではないと思っていますが、そうとは思わない人が意外に多く、その人たちのあいだで変な美容意識が芽生えている。コンプレックスとの向き合い方についてどう考えればいいでしょうか？

稲葉俊郎：コンプレックスのいちばんの入り口は、他者と比較して自分のほうが劣っていると考えてしまうことです。そうであるならば、コンプレックスと向き合うためには己を知ることが最初の一歩になります。そこから始めないかぎり永遠に自分の行きたいところにはたどり着けないのです。そのことは心理学者の河合隼雄やユングなどが繰り返し記述しています。ただ、美容に限らず医療業界もそうですが、自分と向き合うことを避ける風潮がありますよね。そうした根本問題からいかに逃げるかということに技術を駆使している印象があります。　
　相手のことを本当にケアしたければ、「自分自身と向き合うことで、自分の知らない自分の魅力に気づいたり、自分が本当は何を求めているかを知れたりするはずなので、己を探究してみてはどうですか」と言ってあげるべきではないでしょうか。人の不安や恐れにつけこんで商売しようとする風潮が美容も医療の世界も強いことには危機感を感じます。

——稲葉さんは医療における薬の定義を、芸術や音楽、言葉にまで広げて健康というものを考えてこられました。同じように、美容の世界における化粧品というプロダクトの定義を拡張するとしたら、どのようなものが成り立つでしょうか？

稲葉：話が少しずれますが、私が医学部の時に学んで感銘を受けたのは形成外科というジャンルでした。形成外科に対しては私は勝手に美容医療のイメージを重ねていて、美容整形のことを学ぶ科目だと思っていたのです。もちろん美容整形は形成外科の一部にありますが、形成外科というのは本来、交通事故や先天的な病気で顔が変形してしまった人に対して、人生を諦めるのではなく、手術をしてその人本来の状態に戻そうとする技術です。そして、それによって生き方をポジティブに変えることができるなら、その手助けをすることを目的としています。手塚治虫のブラック・ジャックで描かれるような人間の心を相手にする世界です。
　美容整形はそのなかのごく一部に特化したものです。欲望と引き換えにお金を支払う仕組みもありますし、一方では、どうしたら人が自分らしく生きていけるのか、あるいは自信を取り戻して生きやすくしてあげられるかを真剣に考えて施術をしたりアドバイスをしたりするという側面もある。おそらく後者が医術としては本道ではないでしょうか。欲望を引き出して利用するよりも、欲望を生み出している心の仕組みそのものと真剣に対峙する。
　美容整形が後者のように心を相手にして真剣に寄り添うものだとしたら、それは広い意味でも十分な医療行為だと思います。だけれども、同時にそこには悪魔の囁きがあって、欲望とお金の側に転ぶと、底なし沼で危ないです。いま医療業界では若手の医者が好待遇に惹かれてどんどん美容整形に流れていると聞きます。もちろん、私はそういう人たちが、美容整形の世界の中で相手の心に寄り添い、全力で取り組んでいくのならそれはそれで素晴らしい道であると思います。人の幸せに貢献するという本筋から外れなければ自分のやりたい道を進めばいい。自信をもって生きられなかった人が美容整形によってポジティブに生きられるようになったとしたら、それは素晴らしい利他行為だと思います。

茂田：僕はずっと美容の本質は肌の状態をどうニュートラルに戻すかだと言ってきました。ニュートラルではない状態で局所的なケアをすることは、自然の摂理に反するだけでなく、皮膚科学的な観点からもリスクを伴います。化粧をしては落とすということを繰り返し、さらに現在は年々湿度が下がり、紫外線量も増えている。そのような状況下で肌をニュートラルに保ち続けている人はまずいません。だったらいっそのことニュートラルな状態に戻してみるということに考えをシフトし、戻ってから次に何をするかを考えてみてはどうかと思っています。

稲葉：それは先ほど話した神道の考え方と一緒ですね。人は知らず知らずのうちにずれていくものです。だからこそ元の正常な状態に戻す作業が必要になってくる。それさえ定期的にできれば、常にその人らしい状態で居続けられます。医療にも言えることですが、正常ではない状態に対して何かをくっ付けたりしていくと、虚像や虚構だけが増幅しておかしな方向に行ってしまう。足し算より引き算の方が重要です。いまの社会はどんどんずれが拡大する方向へと流れているように見えて、すごく危機感を覚えます。

——ゼロやニュートラルの状態に戻すことを難しくしている要因として、人が人工的な情報をインプットしすぎていることも関係していますか？

稲葉：大いにあるでしょう。地球の自然な状態についても私たちは正確に把握できなくなってきている。地球の自然はどの状態がニュートラルなのだろうか、ということが大事だと思います。都市部にいると特にそのように感じます。人間の身体に対しても同じです。

人に恋をして生きていくことが世の中的に価値をもたなくなっているとしたら、僕としてはちょっと寂しい（茂田）

稲葉：私はいま湯治場というものを見直していて、それを現代と接続させるかたちで何らかの活動につなげたいと考えています。

——昨年蔵王で行われた山形ビエンナーレ2024は、そのあたりがテーマになっていたと思いますが、やってみて新たな気づきはありましたか？

稲葉：歴史の重みを実感しました。いまの医療システムの歴史はせいぜい150年ぐらいなのに対して、蔵王温泉の湯治場としての歴史は1900年余りある。そういった歴史の重みが、町のつくりの至るところから感じられて、共同浴場などのコモンズの形成なんかにも現れているんです。でも、歴史を刻んできたそうした文化を読み解こうとせず、廃れた町というフィルターでしかこの土地を見ることができないなら、あまりにも悲しいです。私はむしろ時代が止まっているように見える場所に希望を感じました。
　確かにいまはクルマでの移動が当たり前で、蔵王でも目的地だけにピンポイントで来て帰る人たちが大半です。徒歩で山越えをしてきた時代の人たちが心身を癒すために温泉に入っていたときとはライフスタイルが激変しています。この場に湯治場があることの必然性は昔に比べれば薄れているでしょう。ただ、だからこそ文脈をもう一度新しく読み解き、本質とずれないところでどう現代に接続させるか、どうアレンジするかを考える必要があるのです。そのひとつの手段がアートを介した通路でした。

茂田：今日はもうひとつ稲葉さんと話したいと思っていたテーマがあります。それは、人に恋をすることの状態についてです。誰かに恋をすることは、ニュートラルな状態を崩すことにもなりかねない。相手に好かれるための自分の人間像を崩すことだってあるので。一方で、いまの若者はどんどん恋をしなくなっていると言われています。恋をすることがいいことだと言っているわけではないのですが、離婚率もどんどん上がるなかで、人に恋をして生きていくことが世の中的にあまり価値をもたなくなっているとしたら、僕としてはちょっと寂しくて。恋をするという行為が心身の健康や幸せに対してどんな役割をもつのか意見を伺いたいんです。

稲葉：人間というのは異性の存在を介することでしか己の魂に出会えないということをユングが言っています。アニマやアニムスという概念です。魂は異性の姿で出会う、と。じゃあ、自分の魂と出会うというのはどういうことでしょうか。それは自分が本当に求めているものに出会うことだと思っています。異性という異なる存在と融合することで未知なる自分と出会い、自らを新たな次元へと引き上げてくれる。そうした本質的な変容によってこれまで何とも思わなかったものに新たな価値を見出すことも起こり得るでしょう。いわば、これまでの世界が違った姿で立ち現れてくるようなものです。そのように恋とか愛を位置づけるべきで、ただの欲望の問題に矮小化してしまうと動物の交尾と同じになってしまいます。　
　いまの若い人たちは消費社会という流れのなかで欲望を消費することに飽きているように見えます。異性を自らの欲望の対象として見ることに価値を置いていないんじゃないでしょうか。一方で世間のニュースを見るとそれとは逆の方向に流れている。だからこそ若い人たちには恋をするとは人間の魂の問題だということをきちんと伝えないといけないと感じています。己の魂に向き合うために、人は恋や愛を必要とするのです。

水で身体を清めることで心身の健康を維持するという根源的な行為をいまの医療はまったくやっていない（稲葉）

——年初にSNSで「今年は水に関心がある」と発信されていましたが、それもやっぱり人の健康や幸福につながっているのでしょうか？

稲葉：これまでも神道や神社、仏閣などに興味がありましたが、今年はそれらと原始的な医療行為を結びつけたい。神道には禊や祓（はらい）といった水で身体を清め、心身を正常させる行為が伝統的に伝えられています。こうした禊の行為と湯治の世界が実はすごく深いところで結びついているのではないかと思っているんです。　
　水で身体を清めることで心身の健康を維持するという、ある意味で根源的な行為を現代医学では扱いません。その空白地を埋めることに、今年から本格的に取り組もうと思ったことが新年にインスピレーションで降りてきたこととつながっています。もちろん水にも津波や洪水など人間にとっては危険性をはらむ負の側面もありますが、自然界にとってはプラスもマイナスも含んだものです。そういうものも全部引き取ったうえで、人を浄化できる水の新たな可能性を追求したいと思っています。

——いまの話からも物事をポジティブに捉えようという姿勢が伝わってきます。

稲葉：ネガとポジの両方でしょうね。東洋哲学に物事は陰と陽のバランスから成り立っているという太極図の思想、Yin and Yangの思想があります。陽のなかに陰があり、陰のなかにも陽がある。そして陽と陰とを含んだ全体像を把握することが大事だというシンボルです。陰も陽もすべてを引き受ける姿勢がそもそもポジティブな人生の態度だとも言えるかもしれません。それがマクロなレベルからミクロなレベルまで、さまざまな階層を含めて水や生命を本当に理解することにつながっていく。

——ゼロの状態に戻すための方法として、どういう行動が効果的だと考えていますか？

稲葉：温泉に入ることもそのひとつでしょう。昔の湯治は1週間入り続けることを指していました。現代の日本で1週間休むことは難しいかもしれませんが、できれば2、3日は連続して温泉に浸かることを繰り返してほしいです。自分のけがれを清めたり、お祓いをしたりするために神社にお参りに行くというのもいいかもしれません。心が新鮮な気持ちになる感覚は、温泉で身体を洗い流しゼロ化させることと似ています。現実世界で多くの電磁波を浴びた身体を温泉に入って洗い流し、頭を空っぽにすることを私は「マインド風呂ネス」と呼んでいます。マインドフルネスの状態になるためにお風呂に入り、マインド風呂ネスな気持ちを味わってほしいですね。

自分が心地いいと思うことが結果的に利他行為になればいい（稲葉）

——人生に大きな影響を及ぼした人がいたら教えてください。

稲葉：（着ているニットを指して）僕はこの人です。横尾（忠則）さん。いろんな意味ですごく影響を受けています。

——著書のなかでは、他にも岡本太郎さんや手塚治虫さんの名前を挙げられています。いろんな人の影響があって、今の自分があるということでしょうか？

稲葉：その都度、自分が興味を抱いたり、好きになったりした人から忠実に学びたいとの思いがあって。誰かひとりということでは決してないのです。好きになった人と近い波動や風を感じたら、その人からもいろいろ吸収したいと思います。個人的に師と仰ぐ人には、実際に会えるか会えないかとは関係なく礼節を尽くしたいと思っています。

——憧れる人の共通点というのはありますか？

稲葉：あえて言うなら美意識をきちんと持っている人でしょうね。美意識と哲学があり、それを貫いている人。「貫く」と言うとエゴのように聞こえますが、そうではなく、どんな組織やどのような環境でもぶれずに自分の幸せと誰かの幸せを同時に考えられる人にはすごく魅力を感じます。

——医師の美意識とはどういうところから見て取れるものでしょうか？

稲葉：私はカテーテル治療に長く従事していましたが、美意識のない人は執刀が雑で、手術の成績も美しくない。技術と満足度の両面に美意識は深く関わってくる気がします。

茂田：最後に稲葉さんの好奇心の原動力について教えてください。僕の周りは意外と自分と同じように誰かの役に立てることをモチベーションにしている人が多いのですが。

稲葉：利他的なものですね。私も医療現場で勤務していたときは利他行為がすべてでした。ただ、私はあらかじめ何か考えて取り組むというよりも、そのときやりたいと思ったことをやる感じです。それが結果的に利他行為ともつながっているといいなと思っています。

茂田：多くの人はきっとさまざまな興味関心があり、そのなかで何かをやるかを取捨選択していると思うのです。それを己の感情にピュアだと見ることはできますか？

稲葉：それは自分の浅い欲望なのか、深い欲求なのか、と考える必要はありますよね。周りに影響を受けている場合もあるかもしれませんし。私も誰かを喜ばせたいという想いは大事だと思っています。でも、それだけだと、自分を大切にすることが疎かになってしまう場合もあります。私が医療業界から少し距離を取ったのもそのことと関係しています。医療の世界はものすごく利他的なのですが、自らの身体を犠牲にしてでも何とかするという考えが強すぎると本末転倒だとも思いました。滅びの美学とも言えるものです。私は自分を滅ぼして他者に尽くすのは違うだろうと思っています。利他だけでなく自利だけでもなく、自利と利他が循環しないと自分の心身が持続可能にはなりませんから。　
　いまは自分が心地いいと思うことが結果的に利他行為にもつながりますようにと思っています。私には医療者としての職業倫理が染みついているところがあって、結局誰かを元気にしたい、誰かの役に立ちたいということが気になってしまうんです。もっと人が心地よくなれる場や空間、手段というものがないものか、いろいろと考えてしまいますね。

茂田：今日はすごくいいヒントをたくさんいただいた気がします。ありがとうございます。