Vol.14

医師、医学博士、作家、慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科（SDM）特任教授
稲葉俊郎 氏（前編）

「型破り」という言葉は、この人を形容するためにあるのかもしれない。カテーテル治療という最新医療を専門とする一方で、医療の枠を広げ、芸術や伝統芸能などとの接続を通して心身の回復につなげる多彩な試みを行ってきた。医師の知恵と青年時代にのめり込んだアートへの深い造詣は、芸術祭の芸術監督という異例の抜擢を実現させた。
昨年、3度に渡った芸術監督としての役目を終えると、相前後して医者を辞した。そしていまはより社会に寄り添うかたちで医療と芸術の新たな可能性を模索しているという。そんな稲葉俊郎さんを家族で暮らす軽井沢に訪ね、伝統医療から東洋哲学、神道、さらに美容や恋との向き合い方など多彩なテーマについて語ってもらった。

自分のあり方を自分で選択できれば、それはきっと心身の健康にもつながる（茂田）

茂田正和：「理想論」では今年、どうすれば自分のあり方を自分で選ぶという気持ちになれるかをひとつのテーマにしたいと思っています。自分のあり方を自分で選択できれば、それはきっと心身の健康にもつながるのではないか。やや漠然としていますが、そんな思いがあるんです。もちろんそれが難しいことも承知していて、自ら選択できないことで精神や心を病む人が多いことも理解しています。　
　稲葉さんは医療の世界から心と身体の健康を考えられてきた。また、医師という経歴を持ちながら、芸術や音楽にも造詣が深く、医療とアートをつなぐ取り組みにも積極的に関わられています。そこでまず、どのような経緯で今に行き着いたのかから伺わせてください。

稲葉俊郎：原点は子どものときです。身体が弱かったこともあり、入退院を繰り返していました。でも、そのうちなぜか健康になって、中学生の頃には普通に学校に通えるようになっていました。そんなことが関係してか、なぜ身体が自然に治ったり治らなかったりするのか、なんで死ぬ人と死なない人が出てくるのかといったことに漠然と興味を抱くようになっていたんです。　
　高校で進路を決める際、将来の仕事とある程度直結していたほうがいいとの思いから医学部への進学を決めました。ただ、実際に医学の道に進んでみると自分がやりたいこととはぜんぜん違っていて、世界がすごく狭いと感じたんです。例えば医学部で学ぶのは基本的に西洋医学です。確かに西洋医学を学ぶことは大事なのですが、私は歴史のなかで培われてきた伝統医学にも興味があった。人類の歴史は600万年ぐらいですが、その歴史とともに育まれてきたものがほとんど無視され、最近の西洋医学だけが取り上げられることに疑問を感じたんです。でも結局、その疑問に答えてくれる人は誰もいなかった。そこで半ば人間社会から逃避するかたちで山岳部に入るんです。

——山という存在が生きるうえで方向を導いてくれた羅針盤だったと、著書でも書かれていますね。

稲葉：大学の山岳部が持っている山岳診療所があったので、夏場になるとそこで山岳診療に携わりながら、山に登るということをずっとやっていました。大学で学ぶよりも、山岳診療所での経験のほうが自分にとっては大きくて。一応モニターや点滴はありましたが、それ以外は何にもないところで、高山病にかかったり骨折したりと肉体の不調もありますが、同時に心が折れそうになっている人たちをどう励ますかを一生懸命考えました。まさに医療の根源に通じる行為だと私は思っていました。対して西洋医学の世界は、患者さんが来たら検査をして、診断を行い、治療して、薬を出して、それを何カ月にもわたって繰り返す。永遠にそれを続けるのは辛いなと思っていたら、結果通常の枠からいろいろとはみ出すかたちになってしまいました（笑）。
　私は今年、医者になってちょうど20年目です。いい区切りだなと思い、医者を辞めました。これまでは医師免許があるので医師として従事してきましたが、それは人が健康になったり幸福になったりするためのひとつの手段でしかなく、他にもいろいろな方法があると思うんです。昨年まで3度にわたり山形ビエンナーレ(*1)に芸術監督として携わったのは、医療と芸術の接点をつくりたいと思い、その方法をもがきながら考えるためでした。本当にいい機会を与えてもらったと思っていて、ビエンナーレでの経験を踏まえて、何かもっとできることがあるということをすごく実感したんです。

茂田：人を健康や幸福にするための医療と芸術の可能性という点で、具体的にどんな気づきがありましたか？

稲葉：あらゆる可能性がありますが、あえて挙げるとすると、やっぱり哲学というか、ものに対する考え方が大事だということです。西洋医学にはそもそも考え方というものがないんです。対して東洋医学には老子や荘子といった思想家の考え方が反映されていて、私自身が探究してきた意識と無意識、表層意識と深層意識というテーマについても彼らの教えから学ぶ点が多くあります。　
　瞑想がいまみたいに流行る前からそういうことに興味があって、学生時代から意識の深いところに潜るトレーニングをいろいろとしてきました。そういうことを実践するなかで、意識と無意識が重なる世界というのは芸術の世界と一緒なんじゃないかと思い至ったのです。
　芸術や音楽、あるいは宗教もそうかもしれませんが、そういうものに接して変性意識の状態に入ったときに、人間の治癒力というのは起きるんです。それをヨガ的な世界でそのままやるのではなく、もう少しいまのカルチャーとつなげて現代的なかたちにアップデートができないかというなかでアートや音楽の可能性に着目するようになりました。意識と無意識の「あわい」の世界で、医術と芸術がつながる何かを表現できないかなと思っています。

科学的に立証できるものがすべてだと錯覚してしまっている。それが不幸をもたらす原因のひとつ（稲葉）

茂田：東洋医学については僕も幼少期から身近に感じることがありました。高校1年のときに夏休みに昼寝をしていたら突然過呼吸になって、血中酸素濃度が死んだ人の数値ぐらいまで下がり、ICUに担ぎ込まれる経験をしたんです。でも、一晩経ったら何事もなかったかのように元の状態に戻った。そのとき母は、自宅の敷地内にあった弁財天を鎮めようと祈祷師を探したらしいんです。それでしか子どもの安全を守る方法がないと思って。

稲葉：東洋医学を越えて、宗教的な世界に通じる話ですね。

茂田：僕の知人に平家の武術治療に通じた人間がいるんです。平安時代に落馬した戦士を即座に治療し、再び騎乗させるために発達した医術で、オステオパシーみたいなものに近い治療法だと言っていました。

稲葉：一種の療術ですね。療術は日本では明治維新前後に禁止されました。それをきっかけに医師の国家試験という制度が生まれ、医師免許を持つ者だけが医者と定められるんです。制度ができる前までは療術家を名乗る人がたくさんいたようですが、彼らの施術はどうしても科学的根拠に乏しいこともあり、こうした流れのなかで療術は徐々に途絶えていきました。もちろん、技術も倫理も玉石混交であったとも思います。　
　私も術（わざ）や技術というものは大事だと思っていますが、その人しか持てない術には普遍性がない側面もあります。一方で、トレーニングをしたり自分が成長したりすることで獲得できる術というのもあって、そういうものと倫理観や道徳が結びついて本来医療というものは成り立っていると思います。けれども、いまの時代は倫理も道徳も必要なく、知識とパソコンさえ使えればそれっぽいことができる。それはAI（人工知能）に駆逐されますよね。正直、「それってどうなんだろう？」という強烈な違和感があって、医師を辞めて、少し医療業界から距離を取ったのもそういう状況に対する自分なりの抵抗なんです。

茂田：療術は科学的根拠に乏しいということですが、そもそも科学と非科学の境界線はどこにあるのでしょう？

稲葉：私は非科学という言葉があまり好きじゃなくて、未科学という言い方をしています。非科学という言葉にはどこか否定的な印象を受けるんです。科学と未科学の境界ということで言えば、数値化やデータ化できる世界を対象とするのが科学であり、永遠に数値化やデータ化できないものを対象としているのが未科学ではないでしょうか。

茂田：世の中には数値化でき、再現性のある状態でデータとしてストックされるものと、未科学の領域のものが共存しているのだろうと思います。そしてきっと、データ化できるもののほうが圧倒的に限られているんじゃないかという気がしています。

稲葉：そうだと思います。おそらく多くの人が本能的にそのことを感じ取っているはずなのに、データ化された世界でさまざまな生業が成立しているので、科学的に立証できるものがすべてだと錯覚してしまっている。それが不幸をもたらす原因のひとつでしょう。

茂田：未科学の領域を否定しはじめることが不幸の入り口という指摘はまさにその通りだと感じます。ちょうどこの前、母と子が離れていても量子的につながっているといった感覚値について書かれた論文を読んだのですが、大半の人はそんなことはないと思っている。要するに、未科学領域のものはあり得ない存在になっているんです。

稲葉：私はそもそも、すべては肯定からしか始まらないと考えていて。そういう立場の人間なので、否定的に物事を捉えることをしません。否定からは何も生まれないと思っています。否定的に物事を見る人は人生も悲観的に捉えていることが多いのではないでしょうか。私はいったんまるごと受け入れてみて、そのなかで自分に合うもの合わないものを選べばいいと思っています。その態度は決して否定ではない。まずすべてを受け入れて肯定するんです。けれども、多くの人はほとんどジャッジすることから始めてしまうんです。

アーティストとはゼロの状態を保ち続けている人を指すのかもしれない（茂田）

茂田：僕は常々自分はアーティストではないと公言しています。突如として自分のなかに湧き上がった衝動に駆られてものをつくることがないからです。たくさんものをつくりますが、それは常に誰かが手にすることで喜んでくれるという人への想いがきっかけです。

稲葉：対人関係を動機にしているということですね。

茂田：そうです。そうしたなかでアーティストや芸術家と呼ばれる人たちのアイデアの源は何なのかを知りたいと思っているのですが、稲葉さんは何だと考えていますか？

稲葉：この前伊勢神宮に行った際に、神宮の参事を務めている吉川竜実さんと久しぶりにいろいろ話をさせていただいきました。そのときに感じたのは、神道(*2)という宗教はお祓いをすることで人をゼロの状態に戻すためにあるということでした。人は生きているだけで罪や汚れといったマイナス的なものを受け取ってしまい、それによって正常な状態からどんどんずれてしまう。そういう人を正常化させるのが神道だと。　
　人はゼロ、すなわちニュートラルな状態になることで、正しい判断ができるようになると同時に、直感やひらめきも湧きやすくなる。そのような状態を維持し続けることが神道だと言われた気がしていて。その感覚はすごく医療的だなと思いながら聞いていました。アーティストや芸術家に限らず、インスピレーションというのは自分がゼロの状態のときに湧くものなのではないでしょうか。

茂田：アーティストとはゼロの状態を保ち続けている人のことを指すのかもしれないですね。

稲葉：そのような状態を維持できる人は稀有な方でしょうね。それができず、その人の本来からずれていく人がたくさんいるので。初心に戻る、すなわち自分が赤ん坊や子どもだった頃の無垢な状態に戻れる何らかの手段を持っていて、定期的に行き来できる人というのは、きっと息長く芸術の世界で活躍できる人なのだと思います。

茂田：一方でいまの現代社会において童心に帰ったり子どもの頃に戻ったりする行為は、社会的に不適格な人間という烙印を押されかねません。特に組織内においては。

稲葉：組織のなかでそれをやるのは難しいでしょう。組織自体がいまはすごく人工的で硬いものになっているので。組織で生きづらいと感じる人はやっぱり独立せざるを得ないでしょう。でも、独立したほうが生きやすければそっちに行くべきです。そういうことをみんなようやく気づき始めたのではないでしょうか。

茂田：そうした気づきを促した要因は何でしょう？

稲葉：行動に移したくても、それを実現する技術の土台がなかったのかもしれません。例えば、ZOOMのようなオンラインミーティングのツールもそのひとつです。戦後の日本はとにかく土地に縛られてきた。土地を守ることは大事な感覚ですが、人の出入りが国際的に流動的になるにつれ、固定的で安定的なものが良いという価値観が変化するのにも時間がかかりました。いままでは職場にいないと仕事ができなかったので我慢してでも会社に居続けていたところに、そうじゃない新しい選択肢が生まれた。多くの人にとって科学技術が後押しした変化は大きいと思います。

茂田：自由な働き方ができるようになった一方で、仕事で精神を病む人も増えています。精神を病むプロセスとはいったいどのようなものなのでしょうか。最初から精神を病んでいる人はそもそもいないはずで、徐々にそういう状態に陥る人が大半です。病んでいくプロセスを把握できるようになれば、症状の発生をコントロールすることも可能ではないかと思うんです。

稲葉：そうだと思います。そのあたりのことはNHK出版から出した「からだとこころの健康学」という本で私なりに心を尽くしてわかりやすく書いたつもりです。基本的には頭と身体の不一致が原因で起こるものだと思っています。身体を動かしてみて、自分が心地いいと思うほうに向かっていれば基本的には健康です。でも、無理やり頭が考えた理屈で、身体が求めていないところに身体を押し込もうとすると不健康になる。病気になると、身体は危険を知らせるサインを送り出します。その声に耳を傾けず、頭由来の言葉だけが過剰になると、身体は我慢できずストライキに入るようにしてストップがかかり、うつ病と言われる状態に移行していくのではないでしょうか。それはやはり身体や心を守る知恵として発動しているはずだと思うのです。

医者というのは本来、翻訳者のように伝えてあげさえすればいい（稲葉）

茂田：今年に入ってすごく意識していることに、自分の過去を振り返るということがあります。自分のなかで自叙伝を書くようなものですが、それを始めたきっかけは、記憶というものが意外と書き換えられていることに気づいたからです。過去の話をしているいまの自分は、従業員を200人近く抱え、パブリックな要素を持ち合わせ、さらに人を喜ばせることが好きだという他者からの目線を意識して語っているんじゃないか。やってきたことや、それによって起こった事象はリアルであっても、そこでうごめいた精神状況や心理状況はかなり脚色されているかもしれない。もしそうだとしたら、自分は本能的に何がしたいのか、それすらわからなくなっているのではという危機感を感じたんです。　
　僕はいま46歳で、ちょうど人生の折り返し地点に差し掛かったところです。これから先、自分はどう生きていくのかを考えたときに、脚色された過去の記憶をベースに物事を選択するのはかなり危険という気がしています。それを避ける意味で、誰からの影響も受けずに自分の過去を回想することをしてみてもいいのではないかと。

——効果はありましたか？
　
茂田：実は年明けの1、2週間、うつっぽい症状に悩まされたんです。うつの症状が出ると急に背中が痛くなって、朝起きるのも憂鬱でした。ただ、自分の過去を回想するようになって以降はコンディションがぶれなくなってきたんです。始めたばかりなのでまだはっきりしたことはわかりませんが、これを続けていけばきっと身体がよくなるんじゃないかと思っています。うまくいったら人にも勧めてみようと考えています。

稲葉：うつの症状が出ている人は、すべての解決策を頭だけに押し付けてしまい、堂々巡りになることが多いんです。でも、背中の痛みがひとつのサインであるように、私に言わせればうつは身体の問題でもあると考えてほしいのです。身体を置き去りにして、自分の頭のなかの考え方だけのせいにして、頭だけで解決しようとしている人が多いです。だから私は医者として「うつは身体のサインです。身体がああしろこうしろと指示を出したら、頭で考えずに身体が言う通りに向かってください」と言ってきました。　
　医者というのは本来、翻訳者のように伝えてあげさえすればいいんです。「身体の声を聴くように」と。もしその声が聴こえなければ、「ほら、こう言っていませんか」と。でも、多くの医者は薬を処方することや手術をすることを医療行為と捉えていて、無理やりそのプロセスに患者を押し込もうとしています。患者が抗えない大きなストーリーを設定してしまうことで、結果として身体が発する声を聴けなくしてしまっているのです。

——頭で考えるのではなく、身体が向かいたがっている方向に従えばいいということなのですね。

稲葉：身体が心地いいと思うところにしか答えはないんです。人との距離感においても、組織における居場所においても、このあたりなら心地いいなと思うところがあって、そこが当人にとっていちばん収まりのいい場所なはずです。快適さや心地よさのバランスを見極めながら社会のなかでの居場所を見つけていければ、必ずどこかにはまる場所、居心地のいい場所があるはずです。そのいちばん大事なところを面倒くさがって、ネットで検索して見つかればいいぐらいに思っていたら、なかなか深い穴から抜け出せないでしょう。　
　自分の常識や習慣をいったん解き放つためにも、転地療養みたいな試みが有効だと思っています。知らないところを旅したり日常から少し離れた場所を散歩してみたりするとか。

茂田：年齢を重ねるごとに身体が心地いいと感じるポジションを見つけやすくなるんじゃないかという気がしています。そんなふうに考えられたら、年をとることも悪くないでしょうね。

後編につづく

*1_山形ビエンナーレ
東北芸術工科大学が主催する2年に一度の芸術祭。正式名称は「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」で初開催は2014年。コロナ禍のオンライン開催を含め、24 年までに計6回実施されている。24年は初めてメイン会場を山形市の中心市街地から蔵王温泉エリアに移し、温泉地でのアート体験を通して心身の健康を回復する芸術祭が目指された。稲葉俊郎さんは20年、22年、24年と3回にわたり同ビエンナーレの芸術監督を務めた。

*2_神道
日本人の暮らしのなかから生まれた宗教のひとつ。八百万の神を信仰の対象とし、あらゆる自然物に神が宿ると考えられている。開祖が存在しないため、その教えや経典などがないのも特徴。神道の祭祀施設が神社であるのに対し、仏教はお寺を祭祀施設とするほか、信仰対象や参拝方法など両者にはさまざまな点で違いがある。