Close

Close

A B O U T

茂田正和

レコーディングエンジニアとして音楽業界での仕事を経験後、2001年より母親の肌トラブルをきっかけに化粧品開発者の道へ。皮膚科学研究者であった叔父に師事し、2004年から曽祖父が創業したメッキ加工メーカー日東電化工業のヘルスケア事業として化粧品ブランドを手がける。肌へのやさしさを重視した化粧品づくりを進める中、心身を良い状態に導くには五感からのアプローチが重要と実感。2017年、皮膚科学に基づいた健やかなライフスタイルをデザインするブランド『OSAJI』を創立、現在もブランドディレクターを務める。近年は肌の健康にとって重要な栄養学の啓蒙にも力を入れており、食の指南も組み入れた著書『42歳になったらやめる美容、はじめる美容』(宝島社)を刊行。2021年、OSAJIとして手がけたホームフレグランス調香専門店「kako-家香-」(東京・蔵前)が好評を博し、2022年に香りや食を通じて心身の調律を目指す、OSAJI、kako、レストラン『enso』による複合ショップ(鎌倉・小町通り)をプロデュース。2023年は、日東電化工業のクラフトマンシップを注いだテーブルウェアブランド『HEGE』を仕掛ける。つねにクリエイティブとエコノミーの両立を目指し、「会社は、寺子屋のようなもの」を座右の銘に社員の個性や関わる人のヒューマニティを重視して美容/食/暮らし/工芸へとビジネスを展開。文化創造としてのエモーショナルかつエデュケーショナルな仕事づくり、コンシューマーへのサービスデザインに情熱を注いでいる。

理想論とは 理想論とは

Close

Close

C O N T A C T

お問い合わせは以下のお問い合わせフォームからお願い致します。
*は必須項目です。

  • 入力してください。

  • 正しく入力してください。

  • 正しく入力してください。

  • 入力してください。

チェックしてください。

確認
確認



    • お名前

    • メールアドレス

    • お電話番号

    • 会社名

    • 部署名

    • お問い合わせ内容

    送信
    送信

    送信完了いたしました。

    SCROLL DOWN
    SCROLL DOWN

    No.00 前編

    「時代の移り変わるターニングポイントみたいなことをすごく感じている」 ここ二年、三年、時代が移り変わるターニングポイントみたいなことをすごく感じているんです。ただ、何をどう変えるべきかという中身の議論については、あまり強いメッセージが発せられていないですよね。むしろ世の中的には、今までがこうだったから、これからもこのままでいいじゃんみたいな空気感だったり、現状を変えたくないと思っている人のほうが多いのかもしれない。 僕自身が中小企業の経営に携わっていて思うのは、どの会社も既存事業だけでこれまでどおりの経済活動を続けていくのは難しいと感じているということ。だから、必死になって新規事業を立ち上げようと考えている。でも、事業を新たに起こそうと思ってもそこになかなか投資がついてこないんです。これが日本の不思議なところです。銀行は「既存事業の設備投資だったらいくらでも資金を出しますよ」と言うばっかりで、新しいことを始めたいと言うと、「どれだけリスクがあるの? 事業の確実性は?」という話になる。日本経済の一翼を担っている金融マンがそんな考えだと、この国は本当にダメになっちゃう。彼らに言いたいですね。「何のリスクも取らないで、あなたたちは日本経済が破綻していくのをただ黙って見ているつもりですか?」と。 こういう話って、何も金融に限ったことではないと思っていて。日本から新しいムーブメントがなかなか起こらないのもこうした問題が関係しているんでしょう。誰もが同じような思いを抱きながら、みんな沈黙している。思いが言葉や声になっていないから、何も変わらず、結局は時間だけが過ぎていくというか……。 確かに変化には時間がかかるんでしょう。それでも、みんなの思いを束ねて声として発したらどうなるかということを最近よく考えるんです。事業のためとか、自分の将来のためとか、子どもたちの未来のためとか、いろんな考えがあります。でも、それ以前に窮屈な思いをして毎日を無理して生きるぐらいなら、いっそ声を大にして変化を起こす側に回ってみてもいいんじゃないか。そのくらいのモチベーションを持ってもいいんじゃないかと。 「口にしなくても自然と変わっていく——そんなふうに物事を捉えている人はいずれ時代に取り残されていく」 僕は日東電化工業という会社で、祖業であったメッキ業からOSAJIというブランドで化粧品事業に参入し、今はHEGEというテーブルウェアブランドも手がけています。日東電化工業は曽祖父が興した会社なんだけれど、 振り返ると三十年ぐらいのタームで大きな変化を遂げているんです。祖父は家電照明の部品を手がけ、父の代で自動車のエンジン部品製造に参入した。それが今からちょうど三十年ぐらい前。そこから三十年が経って、今が次の変化の時なんです。 ちょっと前に働き方改革というのが話題になりましたが、あれって矛盾してますよね。月に四十二時間以上残業をしちゃいけませんと言いながら、収入が減るぶんは副業で稼いで補填しくださいみたいなことを言う。従業員の健康を気遣って導入した制度なのに、副業をOKにして、逆に過労死のリスクを助長しているようにも見える。よくわからないですよ。 稼ぐために我慢して働く時代ではもうないし、どこからがライスワークでどこからがライフワークといった分け方をすることすら今はナンセンスでしょう。残業も他者からの強制ではなく、自分がやりたいと思う範疇で行うのが本来の姿。でも、四十二時間以上の残業は認めませんという働き方改革は、結果的に会社側が従業員の働く時間を規定しているわけで、個人の裁量は無視されている。そこで何が起こっているのかといえば、「働くモチベーションの消化不良」です。でもそれを言えない風潮がありますよね。しかも、口にしたところで何も変わらないと思っている。そんな状況が僕にはすごく意味がないように思えて仕方がないんです。 口にしなくても自然と変わっていく——そんなふうに物事を捉えている人はいずれ時代に取り残されていくんじゃないかな。僕はそうなりたくないから、やっぱり声に出したり言葉にすることを大事にしたい。解決策を論じるというよりも、もっと漠然としたレベルで、こういう考えもあるんじゃないかという思いをいろんな人たちが持ち寄って語り合う。ダボス会議ってあるじゃないですか。世界を代表する政治家や経営者がスイスに一堂に介して幅広いテーマについて議論する。あんな会議体のようなことをこのサイトでやれたらというのが理想としてあります。 言葉にしたら、「確かにそうだよね!」と賛同してくれる人が出てくるかもしれない。そんな人同士がシェイクハンドしてつながっていったら、時間はかかるけれど、いずれは大きな力となって世の中を変えていけるかもしれない。そんな広がりを究極の目標としつつ、まずはお互いの理想をぶつけ合ってみませんか?というのがこのサイトの出発点です。理想とか夢、虚構みたいなものがあるからこそ、日々何かをやる意味があると思うんです。 「『あなたのつくったものに救われた』と言ってもらったときは、心底嬉しかった」 化粧品ブランドのOSAJIについては、中小企業白書とかでも異業種参入の成功事例としてたびたび取り上げられますが、この事業に参入を決めたとき僕が唯一掲げたのが「能動的な売り上げをつくる」というスローガンでした。to Bを主軸とした中小企業って、要は下請け会社で、売り上げの大半は受動的なもので成り立っているんです。その状況がすごく嫌だった。リーマンショックで発注がなくなったときに、「自動車メーカー全体が売り上げを落としているんだから、自分たちの業績が落ち込むのは仕方がない」と言って納得したりしていて。東日本大震災のときも、「部品の調達が滞って自動車の生産が止まるなら、売り上げが落ちるのは仕方がない」と。そんな議論を聞くにつけ、この人たちは何の話をしているんだろうと愕然としたんです。だって、自動車メーカーが売り上げを落とすのと、自分たちの業績が低迷するという議論は別の話ですから。 目標を定め、それに向かって営業の仕方や取り組むべきことを自分たちが能動的に決めるというのが本来のあるべき姿でしょう。それはto Bだろうとto Cだろうと変わらない。でも、自動車のサプライチェーンのなかでもとりわけエンジン部品に関連するところは顕著なのかもしれないけれど、容易に工程変更が効かないので転注のリスクがすごく低いんです。その結果、考え方がどうしてもコンサバになっちゃう。 そういう体質が染み付いていた会社で父は当初、新規事業を「やれっ、やれっ」って応援してくれていたんです。でも、新規事業部って金喰い部署なわけですよ。最初は理解を示してくれていた父も投資がかさむにつれてしんどくなってきたんでしょう。最後は「そんなに無理して新しいことをやらなくてもいい」みたいな話になり、フラストレーションだけが溜っていくという状況がけっこう続きました。 でも、諦められなかったんです。なぜか? ひとつは見栄とプライドです。僕らの世代は同級生でいちばん金持ちになる、いちばんいいクルマに乗る、というのが成功者の証みたいな時代で、どこかでその思いを引きずっていたんでしょう。もうひとつは、つくったものを喜んでくれる人がいるということ。そっちのほうが大きかったかもしれない。実際、OSAJIを購入した人から「あなたのつくったものに救われた」と言ってもらったときは、心底嬉しかったですね。 「クリエイションに対して明確に思うのは、クリエイションは良質な制約条件によって成り立っているということ」 僕は料理を作ったりもするけれど、アーティストじゃないので、無から湧いたインスピレーションで何かをかたちにするみたいなことはできない。そういう術は持ち合わせていないんです。今の仕事に関わる前は音楽関係の仕事に就いていたんですが、続けていくのが難しいと思ったのもそれが理由です。ほとばしるようにインスピレーションが湧いて、次々と楽曲が生まれてくるようなことが僕にはなかった。じゃあ、何のために音楽をやっていたのかといえば、結局はさっきの話につながるんですが、目の前にいる人に喜んで聴いてもらいたいという、ただそれだけだったように思うんです。今やっている化粧品やテーブルウェアづくりも、目の前の人を喜ばせたいという思いから出発していて、この考えは今も昔も変わらないですね。 音楽を諦めたときの挫折感というのはほとんどなかったです。ただ、いい音楽はいい楽器から生まれると信じて、アルバイトで必死に貯めたお金で高価な楽器や機材を購入していた自分より、一台三万円ぐらいのシーケンサーでかっこいい曲をつくっている人がいることを知ったときはすごく挫折しました(笑)。曲づくりを続けていく自信がなくなったのは、そのことのほうが大きかった。 結局、かっこいいことをやっている人って、クリエイションにお金なんてかけてないんですよ。 そういうことに気づかされたり、いくつもの挫折があって今につながっているんだけれど、そのなかでクリエイションに対して明確に思うようになったことがあるんです。それは、「クリエイションは良質な制約条件によって成り立っている」ということ。例えば、好きな食材を使って自由に料理をつくってくださいと言われても、人は結局のところ記憶を引っ張り出して、過去に覚えているものと似せたものをつくろうとしてしまう。それってクリエイションではなくてオマージュでしょう。でも、例えば冷蔵庫の残りの食材だけで料理をつくってくださいとなると、記憶のどれにも当てはまらないから必死になって考えて料理を成立させようとするじゃないですか。それこそ、僕の考えるクリエイションの基本なんです。 冷蔵庫の話で言うと、うちの実家はバブリーな時期もあれば、すごくお金がなかった時期もあったんです。父が取締役を追われて、僕が母の旦那代わりをやっていたりとか。そんなときでも、両親は惨めたらしくない生活を心がけていたようです。自家製の味噌とか醤油にしてもいいものを常備していたし、ケッパーのような当時としては洒落た香辛料もしっかり台所にストックされていた。調味料さえきちんとしたものを揃えておけば、食材が豊富でなくても工夫の余地があると考えていたんでしょう。僕がさっき言った「良質な制約条件」というのは、まさにそういうことです。 ハイエンドなクリエイションやアートよりも、ストリートから出てきた人が這い上がって登り詰めようとする、そんな成り上がっていく感じのクリエイションやアートに強く惹かれるんです。それはきっと、僕自身が同じような境遇を経験しているからというのも大きい。だから、高級食材がふんだんに揃ってるという条件はクリエイションにとって決していいとは思えないんです。 ココ・シャネルが言った、「贅沢の反対は貧乏じゃなくて下品さだ」っていう言葉が、けっこう的を得た指摘だなと思っていて。結局、シャネルがやろうとしたことってある種のフェイクアクセサリーですよね。でも、チープな素材をいかに優雅に見せるかということにこそクリエイションの本質があるのだとすれば、それは贅沢なものをより贅沢なものに昇華させることよりもはるかに難しいし、やりがいのあることだと思っています。 僕の場合、化粧品をつくるにあたって明らかに知識が足りてないんです。大学は中退だし、ケミカルなことを学んだ経験もない。どこかの化粧品会社の研究室に入っていたこともないですし。そういう意味で化粧品づくりについての知識は非常に限られているんです。 そんな自分がつくったものを、以前に化粧品の研究開発をやっている先輩に見せたら、「こんな処方は見たことない」って驚かれました。やっぱり異端なんですね。もちろん知識がふんだんにあればもっと複雑なことができたかもしれない。でも、実際は乏しい知識でやり繰りするしかなかった。それが正直なところです。ただ、シンプルにこうありたいという思いに対しては愚直に向き合い、その表現を実現するために知識を深め、何とか成立するところまでこぎ着けるよう努力は惜しまなかった。「知識がない」という制約条件があったからこそ、OSAJIというブランドはここまで来ることができたんだと思っています。 OSAJIがどういうブランドでありたいかについて言えば、やっぱり肌に関して悩みを抱えている人がいて、その悩みに寄り添えるようなブランドです。最初にイメージしたのは、体調を崩して市販のどの化粧品も受け付けなくなった母の存在です。だから、成分についてもこれは入れてはいけない、これは入っていたほうがいいと明確に規定できたんだと思います。結婚してからは、いずれ出産をするのだから安全なものを使ってほしいと妻のことを思うようになったし。子どもが生まれると、今度は彼ら、彼女らが使っても大丈夫なものをと考えたり。対象を身近に置くことで、結果的にマーケティングリサーチみたいなことをいっさいやることなく、化粧品を作ってこれたという自負はあります。 文・上條昌宏